「裁かずに寄り添え」と私は人に良く言ってきました。「で、寄り添うってどういうことですか?」という質問を受けました。
確かに「寄り添う」ということを説明したことはありませんでした。実はこの質問は、外国人から受けました。
その人は、日本語は非常に堪能で、ネイティブの速さで喋っても的確に理解し、ネイティブの速さで回答もしてきます。
しかし、普段日常会話でそんなに使わない「寄り添う」を外国人が理解していることは稀なため、具体的に説明しなければならず、
自分がそれを本当に理解しているか、どう考えているか改めて振り返る良い機会になりました。
そして、ある人に「もっと、その人に寄り添った方がいい。」と説明しても、どのように伝わっているか怪しいとも感じました。
もちろん、私が言うことが正解かは言い切れませんが、私が考える寄り添うとは、具体的には以下のように考えます。
『わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、
わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。
また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、
律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。
すべての人に対してすべてのものになりました。(何とかして何人かでも救うためです。)』(コリントの信徒への手紙一/ 09章 19~22節)
すべての人に対しすべてのものなることだと思います。これは、その人のことを理解するために研究や分析をするのとは違うと思います。
それでは、その人のことは深くは分からないでしょう。それが表れている好例が今の法律です。頭のいい官僚や政治家が、
外からの報告や数字などを見て、一生懸命分析し、これだという法案を提出、もっと現状が分からない政治家が十分慎重に話し合ってOKを出して施行されます。
例えば2024年問題などです。同様の問題は、外国人の受入れ方、インボイス制度、電子帳簿保存法など列挙すれば暇(いとま)がありません。
これは、手抜きではなく、寄り添い方が足りないから起こる問題です。2024年問題など、現場も国民もみんな困ると分かっているのになぜ施行?という感じです。
やめればいいだけでは?投げやりになっていませんか?と感じますが・・・。話がそれました。戻します。
ほかにも、寄り添うと似たようなことだと感じる御言葉があります。『何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、
互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。』(フィリピの信徒への手紙/ 02章 03節)
これはイコールかは分かりませんが、その要素は非常に詰まっていると思います。全体を眺め、傾向と問題を抽出し解決しようということではありません。
現代でもよく使われている「いつでも誰からも教わることばかりだ」と言う人がいます。これはまさにこのことを言っていると思います。
実際、こういう人に教えている人は少ないでしょう。言い換えると自分は知らないことばかりで、新しい発見は常にあるということだと思います。
さらに言い換えると、自分は何も知らない、何ものでもないという謙虚さが、その人の中心だということかと思います。
ただ、「自分は謙遜だ」とか、その表現やそれを使った立派で有名な人物と同等だというアピールのために「虚栄心」から言っている人もいるでしょう。
私も、いつもではないと思いますが、それと似たようなケースは今でもあると思います。このフレーズ以外でもです。話がそれました。戻します。
さらに分かりやすいように、この御言葉は以下のように続きます。『キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。(人間の姿で現れ、
へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。)』(フィリピの信徒への手紙/ 02章 06~08節)
キリストの寄り添い方こそが完全であると私は信じます。それは『このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。』(フィリピの信徒への手紙/ 02章 09節)を齎したからです。私たちもそうすることで
イエス様が同じようにしてくださると信じるべきと感じます。『わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、
業そのものによって信じなさい。』(ヨハネによる福音書/ 14章 11節)イエス様を知るとはイエス様の業=愛を知ることなのだと思います。
キリストの寄り添いは、愛の形の一つと考えるべきでしょう。 アーメン
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悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(コリントの信徒への手紙二/ 06章 10節