知人から聞いた話です。彼は家族でクリスチャンはいません。彼の家には古くから庭には小さな祠があります。
熱心な彼は、自宅の庭に、この偶像があることが嫌で、それを見るたびに苦々しく思っていました。
そんなある日、祠が目に入り、苦々しく思っていると太い木の枝に頭をぶつけました。彼は腹を立て、祠の前に唾を吐いて言いました。
「すぐに追い出してやるからな。」そして歩くと不注意で、今度は足をくじきました。彼は怒って祠に行き、このヤローと揺すりました。
すると、扉が開いてしまい、中の札が出てしまいました。そこで言いました。「自分で直せ!できやしないだろ!」
しかし、彼の頭の中に、寺社連続油被害事件 のことがよぎりました。もちろん彼はその事件の支持者ではありません。
しばらくして、出かけている彼の家族から、そろそろ家に戻る連絡が入りました。その人は家に戻ると、祠にいつも挨拶をします。
そのまま放っておくと、当然それに気づくでしょう。彼はそのままでもいいとも思いました。そして疑われたり、詰問されたら
「信じているあなたが直せばいい」と言えばいいとも思いました。しかし、その時に無駄な争いや分裂が起きるという感じがしました。
「あなたは、バーミヤンの仏像の破壊と同じことをしている」と言われた感じもしたそうです。そして以下の御言葉が浮かんだそうです。
『わたしたちはこの奉仕の務めが非難されないように、どんな事にも人に罪の機会を与えず、あらゆる場合に神に仕える者としてその実を示しています。
大いなる忍耐をもって、苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓においても、純真、知識、寛容、親切、聖霊、
偽りのない愛、真理の言葉、神の力によってそうしています。』(コリントの信徒への手紙二/ 06章 03~07節)
彼は怒りや恨みなど罪の機会を与えると感じはじめ、不本意ながら、祠の扉を閉じました。祠に乱暴を働き、扉を「自分で閉てみろ」と言いながら
自分で扉を閉めることになりました。見方を変えれば、偶像にからかわれ、使われしまった〔=(偶像が)自分で閉めた〕ことになります。
彼は、祠に向かって言ったそうです。「今回はお前の勝ちだ、挑発に乗り、力でお前をどかそうとしたからだ。だが、いずれは、お前は負ける。」
『イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。』(マタイによる福音書/ 26章 52節)
世のやり方(剣)で戦おうとしたことを神に悔い改めたそうです。すると『悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、
左の頬をも向けなさい。』(マタイによる福音書/ 05章 39節)という御言葉が浮かんだそうです。今回の相手は血肉ではありませんでした。
ただし血肉と闘うような戦い方をしたのが問題でした。『わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、
天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。』(エフェソの信徒への手紙/ 06章 12節)対象はなんであれ、戦いは専ら祈りによるのです。
どのような祈りでしょうか?祠が無くなるように祈ることでしょうか。それは間違いではないでしょう。
しかし、祠がいらなくなる、すなわち家族全員がキリストのみ信じるように祈る方を私はお勧めしたいです。 アーメン
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悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(コリントの信徒への手紙二/ 06章 10節