さて、前回『最終的には、自分のものを捨てる=削る=磨くことが重要だと思います。』と書きました。

 

誤解してほしくないのは、物理的なものではないということです。その誤解を恐れての補足です。

 

聖書の使徒言行録などを見ると、『財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。』(使徒言行録/ 02章 45節)

 

『信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた。』(使徒言行録/ 04章 32節)

 

また、キリストも金持ちがどうしたら救われるかを尋ねた時『「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、

 

貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」』(ルカによる福音書/ 18章 22節)

 

これらの御言葉をそのまま受け入れるとそのように解釈するかもしれません。いいように怪しい宗教団体に利用されたり、

 

自分の信仰を目に見える形で自慢したい人も利用します。すこし神とは話は離れますが、断捨離がブームのようです。

 

多くのその指導者は、心の(中の)断捨離だと言います。物に対する思い出などの執着を捨てるために物理的に先に行うということです。

 

しかし無理強いは、意味がないと言います。また元に戻るようです。使徒言行録で持ち物を捨てた人たちが、実際心の整理ができいたのかは、疑わしいです。

 

『そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、

 

神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。』(使徒言行録/ 02章46・ 47節)実際評判もよかったようです。

 

しかし、まもなくこのようなことが起こります。『弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。

 

それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。』(使徒言行録/ 06章 01節)

 

一時的な感情の高揚や憧れ、見栄、承認欲求が動機となり弟子になった人も多かったということだと思います。心の持ち物を捨てていないということです。

 

分かりやすく言うと、普通の団体と同じことが普通に起こるということです。自分の持ち物とは肉に従って生きている部分のことです。

 

『わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。

 

相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、

 

ということになりはしませんか。ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロに」などと言っているとすれば、

 

あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。』(コリントの信徒への手紙一/ 03章 02~04節)

 

この状態を使徒パウロはこのように表現しています。しかし、私も肉によってこの世を歩んでいます。肉は必要なことです。

 

食欲も性欲も睡眠欲もあります。それはすべて肉からでる欲でしょう。その欲に従うことがないと言い切れるでしょうか。

 

必要だからOK?では線引きはどこでしょうか。私には分かりません。ただそれらの欲が満たされるとき、満たしてくださる神に感謝し、

 

神と人を愛することで、ただ一人で満足しないようには心がけています。そのように考えたとき、自分でできることも得たものも何もないという謙遜が、

 

持ち物をすてることかもしれません。すべては神から出ていると思いましょう。アーメン

 

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悲しんでいるようで、常に喜び、貧しいようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。(コリントの信徒への手紙二/ 06章 10節