さて、記事についてではなく、コメントについてが本題の予定でした。そのままコメント載せると問題だと思いますので傾向を書きます。
エホバそのもののコメントは多いのですが、それは省きます。今回の目的は、この件にあやかって宗教や神について否定的に語っていることについてです。
まず、宗教と神を同一視している人が非常に多いということです。もう一つは、神と他の霊の区別がついていないということです。
他にも、世の救いと神の救いが曖昧なことなどです。多くの宗教には霊がからんでいます。なぜ信じるかの原因の一つは、奇跡がおきるからです。
病気が癒されたり、何が起こるか当てたり、など聞きます。それで人知を超えるものがあると信じ、それがその人の神になります。
トリックであったりすることもあるでしょう。しかしそれでは説明できないことが起こるのです。
トリックについてどういうものかは広く流布しているので、そう簡単には騙されないのではと思います。
しかし人にとって、物証は、絶対です。すべての世のルールはそれが元で成り立っているとも言えるでしょう。目の前で奇跡が起きたら、
しかも自身や家族にそれが起きた時、例えば病気が癒された時、それがトリックではないと否定のしようがありません。
ですから、そういうことはあると知っておいた方が騙されません。奇跡は、神の霊だけが行うものではないということです。しかしその目的は、
『偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとするからである。』(マタイによる福音書/ 24章 24節)
救いではないのです。病気の癒しは救いのような感じもします。しかし、また病気になるかもしれませんし、いずれ寿命で死んでしまいます。
『わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。』(ヨハネによる福音書/ 14章 27節)
一時的な癒しは、救いではありません。神の救いは永遠です。それは永遠の命です。人は霊であることを知るべきなのです。
ところで、ドラマなどしか知りませんが、ヤクザは、報酬しだいで、警察では対応してくれない都合の悪い事実を、処理してくれる描写があります。
しかし目的は人助けではありません。報酬です。その後も利用したことを世に明らかにすると脅したりして、金がなくなるまでゆすり続けるケースをみます。
警察では対応してくれないことを、してくれるということが入り口となり、牢屋に閉じ込められたような状態に陥ります。
医者でも治せない状態を癒すことが、入口となって牢屋に閉じ込められたような状態に陥るのと似ています。
その奇跡の神に破門だとか脅されたりして、一生金と労力、自由をとられます。同じ類の霊の仕業なので当然です。そして外界と接することをさせず、
他と比較をさせないようにして、正常か異常かを麻痺させます。キリストはどうだったでしょうか。
『人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」』(マタイによる福音書/ 11章 19節)
使徒パウロも『わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、
律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、
キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。
律法を持たない人を得るためです。弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。
すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。』(コリントの信徒への手紙一/ 09章 19・20節)
積極的に世に出て行きました。
ところで、すべては、ランクがあります。不足な説明ですが、無機物、植物、虫、動物、人間、霊、神という感じです。
無機物は意志がありませんから、植物に何もできません。岩にも根が入り、やがて割ってしまいます。
植物はどんなに大きくても無力な芋虫にどんどん食べられてしまいます。その虫は一般的に動物の餌です。
しかし動物は、人間にとっては、クジラやサメ、象、ライオンすら狩や食物の対象です。それと同様人間は肉によって歩んでいるので、
霊には無力なのです。神が味方になって下さって、初めて対抗できます。故に神の霊を知らない人は自分を超える存在である霊を神と崇めやすいのです。
『いわゆる神々』というのはそういうことです。彼らが創造主という感じはしないと思います。当然です。神の被造物にすぎないのです。
宗教とは、人の軸となる考え、思想のようなもので、神そのものとは違います。神の教えではなく、人が受け入れやすいよう都合のいいようにに加工されています。
端的に言えば人の教えになっています。キリスト教も全く例外ではありません。このような流れです。
『イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。
『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』
あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」更に、イエスは言われた。
「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである。モーセは、『父と母を敬え』と言い、
『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。
『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、
その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と。こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。
また、これと同じようなことをたくさん行っている。」』(マルコによる福音書/ 07章 06~13節)
異端と言われる宗教はこの極端な事例でしょう。しかしキリストを知ることからキリスト教という宗教に変わった時点でそれは始まっていたのだと思います。
神は解放であり、自由です。そして愛が軸です。閉塞感があればそれは違うでしょう。同じ教会内でもそれぞれの人、教えが混同しています。
識別は平安です。 アーメン
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わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。(一コリント/ 09章 18節)