原罪による失楽園は、実は必要だったのです。それは神の動機である人を友にするということに大きくかかわります。

 

原罪により、以下が行われました。『主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、

 

あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。

 

彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。』(創世記/ 03章 14・15節)悪魔が地に属することが決まり、イエス様が来られることもj決まります。

 

実はここではじめて、神の御心である人を友とする道が開けます。

 

『神は女に向かって言われた。「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。お前は、苦しんで子を産む。お前は男を求め/彼はお前を支配する。」

 

男女の平等は永遠の課題になることを預言しているように感じます。

 

『神はアダムに向かって言われた。「お前は女の声に従い/取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。

 

お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して/土は茨とあざみを生えいでさせる/野の草を食べようとするお前に。

 

お前は顔に汗を流してパンを得る/土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。」』(創世記/ 03章 17~19節)

 

この御言葉は、文字通りの意味である生きるために苦労して労働しなければならないという意味はもちろんあります。

 

すこし話はそれますが、ほかにも意味があります。人はこの時土に帰る存在にされました=世に属するということです。

 

食べ物は世のパンになります。それは生涯食べ物を得るために苦しまなければならないこと=塵にすぎないことを意味しています。

 

対して『イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、

 

わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」「わたしが命のパンである。

 

わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。』(ヨハネによる福音書/ 06章 32~35節)

 

と言います。また、サマリアの女(ヨハネ福音書4章)のところでも、『わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。

 

わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。』(ヨハネによる福音書/ 04章 14節)

 

これが救いであり、キリストによって世ではなく天を選べるということです。せっかくですので、似たような御言葉ですが、

 

『『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。』(マタイによる福音書/ 04章 04節)

 

そして『ヘブライ人への手紙/ 10章 01~18節』 に,最も詳しく書いてあります。是非読んでみてください。

 

話を戻しますが、今回のブログで重要なのは『主なる神は、蛇に向かって言われた。「このようなことをしたお前は/あらゆる家畜、

 

あらゆる野の獣の中で/呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に/わたしは敵意を置く。

 

彼はお前の頭を砕き/お前は彼のかかとを砕く。』(創世記/ 03章 14・15節)

です。この御言葉には、

 

サタンが堕天することとキリストが来られることが示されています。つまりキリストが来るのとサタンが来るのはセットということです。

 

神であればサタンの懲罰などほかにいくらでもあるのに、このような判決を出したとはそういうことです。

 

長くなりましたので、さらに詳細は次回へ。世と世の霊(悪霊)について書こうと思います。

 

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