例えば遺産相続に話が戻りますが、親の介護に対して何の見返りも求めないのであれば、前回の冒頭のような揉め事は起こりません。なぜ見返りを求めるのかと言えば、肉から出る愛は、たとえ配偶者や親や兄弟に対するものでも有限なのです。

 

自分の愛をどこかにつぎ込んだなら、他人から愛してもらったり、褒められたり、金銭的なことなどで、なんらかの補充しなければ穴が埋まらないのです。しかし、それなしに他の遺族から同等の財産を求められるので、その人たちを愛するエネルギーが不足します。

 

結果、彼らを愛することを止める又は愛せなくなるのです。もう一つ分かり易い例を挙げると、両親から十分愛情を受けた子供は安定して育ちます。それは大人になっても続きます。対して、多くの曲のある人には、子供の時の家庭環境に問題があることが殆どです。

 

彼らは、愛情を十分に受けていないので、人を愛するエネルギーがないのです。しかし、両親から愛をいくら受けていても限りはありますから、人からもらったり奪わずに、愛を人に供給し続けるには、やはり神と繋がるしかないのです。

 

肉の善意や善行も同様です。肉で行うと『私がこれだけやったのだからこれ位はしてくれて当然』という思いが強くなります。そしてその通りにならないと、相手を裁きます。また、肉の努力で得たものもそうです。

 

自分に与えられた器や環境があるからこそできたことを、成功例として人に押し付けます。『私ができたのだから』とか『私がやっているのだから』と要求します。

 

これらはいずれも、お返しをしてもらったり、人から褒められたり、人と比較して優越感を得たりしなければ、肉の善意も善行も長続きしないので、それを他人から得るための行動や想いとも言えるのです。

 

しかし『神から頂く、人を愛する力』には限界がないのです。何故なら神はすべてにおいて無限だからです。愛をいくら与えても、なくなるどころか沸いてでてきます。他から補充する必要はないのです。そうなれば、たとえ恩を仇で返されても自分の愛は不足しません。

 

結果、その人のために祈れるし、いくら親の介護をしても、何の見返りも必要ありません。そもそも何か活動や奉仕をした時、最初からもらえるはずの物があるなら別ですが、見返りがあるという発想がなくなります。結果、揉める要素がなくなるのです。

 

長くなりましたので、次回へ続きます。

 

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