『罪を憎んで人を憎まず』と聞くと罪という事象を憎んで人は憎まないというよに受け取れます。辞書的には『犯した罪は憎むべきだが、その人が罪を犯すまでには事情もあったのだろうから、罪を犯した人そのものまで憎んではいけないという教え』(故事ことわざ辞典より引用)
とあります。しっくりきますか?意味は異なりますが、似たようなケースでは『明日は明日の風が吹く』先のことを案じても始まらないので、成り行きに任せて生きるのがよいということ。(故事ことわざ辞典より引用)などもあります。
双方実は、いずれも霊的なものを抜いているいので、文字通りこのように骨抜きになります。まず、罪とは何でしょうか。『わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。
善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。』(ローマの信徒への手紙/ 07章15~20節)パウロはこのように言っています。
私達の肉には自分ではない罪が住んでいて、自分の望む善は行わず、望まない悪を行わせるのです。自分の心には複数の霊がいます。それは自分の霊、悪霊、クリスチャンであれば聖霊です。聖霊は父と子のものを受けておられますから父と子もいると思ってください。
悪霊は複数います。『汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。
そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。』(マタイによる福音書/ 12章 43~45節)全部で8つの悪霊がこの人には住むことになるということでも分かります。
もし、彼らの悪しき囁きがなければ、人は罪を犯さないのです。アダムもエバも蛇に唆さなければ罪を犯すことはなかったでしょう、。人は善悪の判断をできるようには作られていません。自分の主人に聞かなければならないのです。
最初、それは神でした。『主は、悟りをもたらす知識で彼らを満たし、/善と悪との区別を示された。』(シラ書〔集会の書〕/ 17章 07節)しかし、エデンで神の言いつけではなく、サタンに判断を委ねてしまいます。
ここから、人が相談したり、判断を仰いだりするのがサタンになってしまうのです。神は人にこの世の支配を委ねました。その後も多分その役職的な所は一緒でしょう。しかし、神からの指示をもう一度サタンに判断を委ねるような形になっているのです。
故に実質サタンが支配していることになります。『そして悪魔は言った。「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。』(ルカによる福音書/ 04章 06節)
これは神が与えたものではないでしょう。サタンが人に指示をしたり、人がサタンにお伺いを立て判断するのです。あくまでそれを実行するのは人なのです。人は神から世を管理する権限を与えられており、神がそれを取り上げたという記述はありません。
しかし人は、サタンなしでは判断し実行もできなくなってしまっています。実質サタンの操り人形的な存在なのです。それを救えるのはキリストを信じることしかありません。話が長くなりましたので、続きは次回へ
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