『あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である』(コリントの信徒への手紙一/ 06章 15節・12章 12節)

 

そして『こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。』(エフェソの信徒への手紙/ 01章 10節)

 

頭はキリストであり、手や足であるキリスト者は、頭の指示に従いそのために働きます。ずっと歩いている足を見て、大変そうだからと思い、足を休ませるために、手が勝手に逆立ちを始めたらどうでしょうか。手は足のために善意で行っています。

 

しかし、足は歩くことに何ら大変さを感じていないでしょう。しかし手から見ればそれは驚異的な負担に見えるかもしれません。そして善意で手が行ったことで、腕が上がらなくなって日常に困るのは体全体です。

 

手は足の為を考えてはいけないのです。手は頭に聞いて従ってこそ役割を果たすのです。『わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。』(ホセア書/ 06章 06節)

 

『いけにえ』や『焼き尽くす捧げもの』が悪いのではなじのです。旧約の人たちも悪意ではなく、神の為の犠牲(奉仕)としてそれをおこなっていたはずです。『愛』と『神を知ること』なしに行うこれらに意味はないということを言っておられます。

 

故に祈って聞かず、神を知ることなしに教会のためなどと銘打って、行う奉仕や活動は実はキリスト不在なのです。神を知り、愛し、隣人を自分のように愛し、互いに愛し合い仕え合うことが、最優先であると主は言っておられます。

 

しかし、それを完全に自分で全うすることはできないのです。今まで恨んでいた人を無条件に愛せますか?その人のために喜んで祝福を祈れますか?それには、すべての人を赦し、自分そのものを捨てねばなりません。

 

また、神を知るとは『御言葉を聞いて悟る人』であり『主の言葉があなたがたの内にいつもある人』です。御言葉を聞くには聖書を読まねばなりません。しかしそれでも自分では悟れないでしょう。悟るには自分の内にキリストがおられる必要があります。

 

いずれもイエスの御名により聖霊を求めるしかないのです。それは祈りによってしか為し得ません。そしてそれが為されれば何でもできるのです。以下御言葉の通りです。『はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。

 

わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。』(ヨハネによる福音書/ 14章 12~13節)

 

もちろん私もこれは目標であり、まだまだできていません。しかし、使徒たちを見ればそれは分かります。そしてそれが信仰であり、霊魂の救いをもたらし、それを人にも流すことになるのでしょう。

 

最後に、聖霊の力も、御名の権威も、悪霊の妨害も認めず、社会活動や教会の奉仕にばかりに熱心な司牧がもしいたら祈りましょう。『主よエマオの道中のように彼らに現れて、目を開いてください。彼らの心を燃やしてください』 アーメン

 

参考:ルカによる福音書/ 24章 13~32節 ※特に『イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち』(ルカによる福音書/ 24章 25節)この主の叫びは、今も続いているのではと思っています。

 

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