『イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。
そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。
そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。
「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」』(ヨハネによる福音書/ 09章 01~15節より抜粋)ここまでは似たような展開に見えます。
『そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。』(ヨハネによる福音書/ 09章 17節)大胆にイエスを預言者と宣言します。
ユダヤ人たちは、何故彼の目が見えるようになったのかを彼の両親にも尋ねますが『本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」』(ヨハネによる福音書/ 09章 21節)と会堂から追放されることを恐れてこのように答えます。
両親もこの世に属する人の対応です。『さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。
ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。
あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」』(ヨハネによる福音書/ 09章 24~33節より抜粋)
この世の権威(ユダヤ人たち)を恐れず、神のみ見て語っている大胆さは、聖霊によるはずです。霊が清められれば(火の洗礼を受ければ)このようになるのです。ベトザタの池とシロアムの池の比較はそれが顕著にでています。
誤解しないください。イエス様の復活後に聖霊降臨が弟子たちにはおこりますが、それは聖霊を送る権威を父から子が引き継いだということであり、父からはすでに聖霊は送られていました。サムエル記のサウルやダビデに度々注がれる油や神の霊は、聖霊です。
『会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」』(ルカによる福音書/ 12章 11~12節)これは弟子たちにイエスが語ったことです。
ベトザタの池の足の不自由な人やシロアムの池の盲人の両親は、まさに『権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配』しています。しかしこの盲人には、『言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださった』のです。
聖霊の働きは言動だけではありません。しかし長くなりましたので次回続きます。
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