3月11日です。
あれから13年が経ちました。
昨夜からテレビでずっと東日本大震災をみています。
あの時は
ひとつひとつが大変で
でも、
海の近くに住んで居た伯母と連絡とらなきゃ
携帯が通じないから、テレビの避難所放送の後ろの方でおすましして写ってないか探さなくちゃ
→道路が崩れたりガタガタでどこが通れるか不明+自衛隊警察住民以外は一般人が行方不明者を探しに行くのは難しいし迷惑と言われていました。
動かなくちゃ
→諸々考えて不安にならない様に、
とにかく考えない様に忙しく動いていた気がします。
家族の食べる物を確保しなくちゃ
→スーパー等も3〜4時間並んで、1人10点で欲しい物ではなく有るものを割高で買っていました。
従業員の方も自分の家の事をしたいだろうに申し訳ない有難いと思っていました。
(それでも実家は、出入りのお米屋さんがガソリンがない中連絡をくれて配達してくれたり、野菜を持ってきてくれたりとても助かりました)
伯母を探す為に来た従姉弟(→従姉弟は実家に独身時代ずっと住んでいたので同じく実家に向かう幼馴染に乗せて貰って探しに行きました)
と後にお葬式の為に家族も来て、従姉弟家族4人分の食材も確保しなくてはならず、従姉弟家族が割高×2倍位の物もどんどんカゴに入れるので地震からの2週間で食費が20万オーバーだったと後に母が言っていました。
後から合流した従姉弟息子が、大きなリュックにいっぱいお菓子を詰めてきてお披露目し
(被災地では甘い物がなかなか買えませんでした。従姉弟息子が来る事になり
お金は支払うからお菓子を出来るだけ沢山買って来てくれたら有難いと伝えていました。)
娘にたけのこの里を1箱くれて、娘がそれを全員に配ってみんなで食べて、その他のお菓子はまたリュックに詰めて自分たちが寝泊まりさせてもらっている1階に持っていったのには驚き、それをニコニコ見ている従姉弟に対して疑問と心に大きな距離が出来ました。
ガスが不通だから何とか工夫しなくちゃ
→結局ガスが通ったのは1ヵ月半後の4月の下旬でした。
仙台市中心部にガスを通してしまうと飲食店再開に繋がり下水管が持たないとの事でした。
水道と電気は大丈夫だったので頼りはティファールと電気鍋、炊飯器とカセットガスコンロでした。
今日のお風呂(シャワー)のお湯を確保しなくちゃ
→実家には昔の大きな魔法瓶ポットが4本あったので、小さなティファールでお湯を沸かしポットに貯め、熱湯を水で温度調節をして体や髪の毛を洗っていました。
1人3本でなんとか丁度良い感じでした。
実家含め家族5人と、のちに伯母を探しに来た従姉弟家族4人。一日中お風呂を考えていました。
だから、ポットが3本貯まると順番に朝だろうと昼だろうとお風呂にしていました。
このティファールです
何度も沸かしてはポットに入れてを繰り返していて。
「お願い壊れないで🙏」と祈りながら使っていました。
(これこれ!大活躍してくれてありがとう)
地震で壊れた物を片付けなくちゃ
→実家は、飾り棚の陶器のお人形達・クリスタル、作家物の器・エルメスやロイヤルコペンハーゲンがストッパーも虚しく飛び出て割れてしまい。
全部捨てるのは忍びないと母がお人形は私が直すから捨てないで捨てないでと言う中、スペース確保の為殆どを処分してしまって。
私のお気に入りのドマンのシンデレラの馬車とシンデレラと王子様も妹に捨てられちゃいました。
とにかく
やらなくちゃいけない!動かなくちゃいけない!
文明の発達した便利な世の中から、
急に昭和半ばに放り込まれた気持ち。
でも街中の私達より、海の側の人達の方が苦しい筈。
津波被害の人達に比べたら、弱音なんて吐けない。
そう思いながら、
気持ちに蓋をして
朝が来たらお湯沸かし、あるもので料理し、洗濯、掃除、後片付け、買い物に行き、夜になりをただ繰り返していた気がします。
伯母が死んでしまったのに、みつかって良かった!と皆で喜び合いながら悲しむ。
奇異な光景が現実でした。
今年もテレビの前で14時46分に合掌。
やっぱり涙がこぼれます。
伯母に、
なんですぐに逃げなかったの!
っていまだに思う。
雨戸なんて閉めずに、すぐに逃げれば助かったのに。
母曰く 姉様好みの薄寝ぼけた色のティーセット
で伯母を思う。
今は私もパステルガーデンシリーズ好きだよ。
どうか安らかに。
どうぞ宜しくお見守り下さいませ。
今日もポカポカ太陽の日。
あちこちで春の花が咲き始めています。
ソメイヨシノ。
天に向かって真っ直ぐに。
3月11日は仙台で家族と一緒にいたいと毎年思います