1985年、根津美術館 出版の図録の中の一つの茶碗。
下手くそな画の茶碗だなと思いました。
だが造形はしっかりしていて、高台も十文字の割高台になっていて、独創的な
形、何でも変えたら良いものではない~変な茶碗だと思っただけで他のページを
捲って素通りしたものです。
そして、それっきり~ほかの茶碗をみていました。
つまり、茶碗を見るだけの力量がなかったという事?でしょうか?
韓国の新聞ハンギョレ新聞が、根津美術館の茶碗展示会について書いています。
その和訳が出たので読んでみました。
この茶碗は韓国人にとっては平凡に見えるのだが、何故日本人は、これを見て
感激するんだろうか?
昔と違って、何故~この様な茶碗を日本人は大事にするのかと問いかけている
んですね。(昔なら、こんな茶碗を喜んで~日本人賢くないね・・アハハ(笑)
と来るところです。)
ハンギョレ新聞は、日本をボロクソにいう新聞で、ハンギレ新聞と名を変えた方が
良いと思ってはいるんですが、偶には迷う事もあり、そのあたりが可愛い新聞
です。
日本の新聞みたいにああでもない!こうでもないとぼかさないので読みやすい新聞
でもあります。
もう少し続けます。
「人生に無心の美学で白磁と青磁を眺める韓国人の審美館としては、納得するのは
難しく、同感する事さえ容易ではない。」
記者は、こんなことを言ってますが、その気持ちはよくわかる!
必死に理解しようとしてるんですが、やっぱりわからないと考えているんですね。
日本人だって、こんな変な茶碗と、そこにあれば蹴っ飛ばす人の方が多いかも
しれないです。
茶碗がガラスケースの中に鎮座しているから、アレレ~一寸待てよと思う人の方が
多いかもしれませんね。
焼物は芸術の中ではちょっと変わってます。
作るには作ったが、焼いてみなければわからないと言う所があります。
つまり、作家と火の神の合作なんです。
この茶碗の下手くそな絵は、徳川家光なんです。
下絵を送り~専門家が忠実に焼き物に写したんです。
そして茶碗を作り焼いたのは、日本人&李朝人の混成チームなんです。
焼いた窯は釜山窯と言い、対馬の大名宗氏の管理下に置かれ、土は河東か普州
辺りの物を使っていました。要するに土と燃料は韓国産です。
この窯の存在は約100年~あまり李朝側に得る物はなく、享保の頃閉窯となり、その
後窯は対馬に移ったという歴史があります。
さて、この記者が神妙に感心しているのは、この様な朝産の茶碗と、奥高麗
と言う唐津茶碗を比較して展示したことです。
この奥高麗茶碗も謎の多い茶碗で、20年ほどの間の生産で消えていった
ものらしいです。
奥と言うのは、高麗の奥から来たという意味で、高麗茶碗と呼びますが、
ほとんど李朝になってからの物なんです。
記者は、最後の方で、この展示をした企画者をべた褒め!
padaも見て見たかった!
展示会の最初頃に、この記事を見ていたら、padaも東京まで見に行ったかも
しれません! 残念!
この茶碗が載ってる図録です。
表~表紙は志野茶碗、この本の中での一番自慢の茶碗で、その茶碗の一番の見所と
思えば良いですね。
それが、この部分です。
この本の中に出てくる高麗茶碗~平凡なものですから、韓国に行けばいくらでもあると
思ってこの本を持って韓国にいきました。
勿論探しても探してもないです。
ハンギョレ新聞の記者さん、韓国に帰って、よく李朝茶碗を見てください。
日本人の好きな高麗茶碗~平凡な物ではないとわかったはず。
この辺り~一寸聞いてみたいものです。
この茶碗の全体像を写せば、この様になります。
しかも、この茶碗の見どころは、この3本の指痕~つまり欠点でした。
*padaも、この様な事が少し理解できるには30年程、かかりましたです。
このハンギョレ新聞の記者さん~これを理解出来たら、もうそれ以上はない、
卒業です。
裏側の写真、李朝の三島茶碗!
確かに平凡ですが、いざ探すとなかなかない物です。
表と裏は日韓の茶碗~中も日韓&中国の茶碗~この美術館は昔から
良い企画をしますね。






