- お伽草紙 (新潮文庫)/太宰 治
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夏休み期間だからと言う理由で「読書感想文」など書くという訳でもないのですが。
って~か昔から読書感想文、なんてのは大嫌いで、いつも宿題の最後まで残していた、というか、「人に強制されて面白かった本」などというものは存在しなかったので、大変な苦痛であったというか。
更に、こういった本の後ろに大抵は載っかっている「解説」なんてものは、本の理解を深めるどころか、余計な先入観を煽るだけのものであり、自らが感じ取ったものから僅かながらでも持っている瑞々しさなども吸い取ってしまい、ただの干からびた「固定観念」、「誰かの書評」、などというものに置き換わってしまうだけ、というか。
そういうものに捕らわれず、自由に読め、感じることが出来るものが「本」である、というか。(だから解説を読んで感想文を書く、などもってのほかでありますし、解説と違うぞ、などと言う教師は更に問題外だと勝手に思っておりました、はい。)
そんな訳で、ここでご紹介するのは、あくまで「ご紹介」であり、さらに「私が面白かっただけ」ということであり、さらにこれから書く感想などは、「私が感じただけ」のことであり、やたらに愚かなことを申し述べる可能性も多々ある、とうことをご承知頂いた上で、こうして太宰治氏の「お伽草紙」を引っ張り出して感想文など書こうかと。(一部感想になってないですが^^;)
久々に読み返してみる機会があり、「瘤取り」(爺さん)、「浦島さん」、「カチカチ山」、「舌切雀」、の4本の短編をまた新しい気持ちで堪能いたしました。
太宰治と言えば、「斜陽」、」「人間失格」などが世に知られているようであり、また女性を伴って「玉川上水入水自殺」でこの世を去った、ということも知られた事実であり、それ故かなりの暗いイメージがつきまとっているかと。
ただ、この「お伽草紙」に関して言えば、そういった暗いイメージとは程遠い、かなりユーモラスな口調と文体で綴られている物語です。
古来から日本に伝わる昔話を、太宰流に創作し、そこに現れる人物たちに現実の生活感の中で生きる人間の息吹を与え、そこから同じく現実に生きる私たちに共感、もしくは反感、を覚えさせながら、しかも太宰の中に息づく様々な思想を反映させながら、更にはそこに見え隠れする自己否定、生活への諦観、芸術感、芸術家を含む人の生活活動への少々の軽蔑と敗北感、なども感じさせながら、展開される物語はどれも軽妙に進んで行きます。
後年、「人間失格」を残し、自ら命を絶った太宰でありますが、この御伽草子の中には、太宰がそこへ至るまでの精神の苦痛の片鱗のようなものがちらほらと見られ、ただし、それは決して暗いものではなく、どちらかと言えば自嘲気味ではありながら、それでも「読者」を意識した文体と、「己の表現」にこだわる中で、ことさら冗談めかして書かれております。これがまたひどく痛々しいような気がいたしましたが。
ただし、私が数ある太宰の作品の中でもこれが特に好きなのは、その文体自体、ところどころ痛々しいような表現もありながら、それでも太宰の中に渦巻いていたであろう様々な思想と理想が一言も触れることなく、感じられるということです。
全体として面白おかしく書かれながら、それでもそこに登場するものたちは、どことなく哀愁あり、生活感あり、更に同情すべきものあり、こうしてどちらかと言えば無機質な「おとぎ話」、理不尽な「おとぎ話」に、命を吹き込んだ、というこの短編は、まさに「太宰の真骨頂」とも言えるのではないかな、などと勝手に思っている訳です。
ちびっと「カチカチ山」のご紹介などを。
この「兎」の「狸」に対する仕打ちはあまりにひどいのではあるまいか。たとえ捕まえられて、「狸汁」にされる所であり、命からがら逃げ出す際にお婆さんに「怪我を負わせた」もしくは「婆汁にしてしまった」、などということがあったとしても、それにしてもこの執拗な兎の復讐の仕方、騙し、大火傷を負わせ、そこへ唐辛子を塗り、ようやく治ったと思うのも束の間、更に騙して泥船へ乗せ、最後は助けを請い、泣いて謝る狸を船の櫂で叩きのめして溺死させる。これはあまりにひどいのではあるまいか。なぜ一気に「天誅!!」と懲らしめられなかったのか。
太宰はここで兎を「16歳の処女」とします。美しく、まだ人生の苦労を知らず、恋も知らない。得てしてこの類の女性は「人類の中でも最も残酷になり得る」ものである、と。
対して狸は「中年に差しかかった、愚鈍で助平で食い意地の張った、しかもこの兎に惚れこんでしまった男」とします。しかも無神経であり、いやらしい笑いを浮かべ、ヨダレなども垂らしながら兎について回ります。ついぞ女性にモテたことのない怠け者で食い意地だけの張った、さらに見え透いた嘘ばかりつく、吐く息まで臭い中年の男です。兎はこの狸をどれほど忌み嫌っていたことか。「自分に惚れている」、それだけでどれほど許しがたい罪を狸が犯していると思ったことか。
兎はちょっとした微笑みだけで狸を容易に騙すことが出来ます。
「一緒に芝刈りへ行きましょうよ。うんと働いたら仲良くしてあげるかも知れないわ。」
狸は苦も無く騙されます。
「えへへ。苦労させるぜ、こんちきしょう。」そして這い寄って来た蜘蛛をぺろりと食べ、「おれがどんなに嬉しいか、もう泣きたいくらいだ。」と嘘泣きをしてみせます。
この狸を見つめる兎の眼は、きっと恐ろしいくらいに冷たいものだったでしょう。そんな兎の嫌悪感にも気付かないほど狸は愚鈍で、自惚れが強い。
私は女性でありますから(美しくはないのですがね)断言出来ますが、こういった男に女性はどれほど冷たく、残酷になれることか。
太宰の人間観察、人間への理解は相当深いものであったろう、と、更には少しばかり経験も踏まえた上でのことであろう、などとも思ったりいたしましたが。
更にはこの狸君、読めば読むほど憎めない、というか、「君、それは地獄へ自ら落ちたいと願うようなものだよ。」と忠告してやりたくなるくらい鈍い。まあ、鈍くなければ火傷あたりでこの兎からは手を引いたと思われるのですが、どんどんどんどん先走ってしまい、とうとう泥船を兎に作らせるあたりでは、「これほどの働き者を女房にしたらおれは遊んで暮らせるかも知れない。こうなったらこの女にくっついて一生離れぬことだ。」などと勝手に独り決めしてしまい、これはもう、女性の立場から言わせてもらえば、「死んでくれ。」と言うしかない。
かくて狸は湖の底へぶくぶくと沈んでしまい、これでもか、と櫂で叩きのめしていた兎は一言。
「おお、ひどい汗。」
この残酷さ。
太宰はこう結んでおります。
「女性には全てこの兎が一匹住んでいるし、男性にはあの善良な狸が溺れかかってあがいている。この話に評論家的な結論を与えずとも、狸の死ぬるいまわの際の一言にだけ留意しておいたらいいのではないか。曰く、”惚れたが悪いか”。」
この悲喜劇。私は随分前に一度読みましたが、あの頃は私も兎と同じ年頃でありましたので、狸の悲哀には思い至りませんでした。
今となっては、狸がなぜ「善良な」と言われるのかがわかりますが。
兎が女性となった時、自分に惚れた男への仕打ちを思い出すことがあるのでしょうか。
女性として願わくば、兎が狸を「あの時は可哀想なことをしたわねえ。」という想いと共に振り返らんことを。
長々と駄文を連ねて参りましたが、どこかでお見かけしましたら、ご一読下さいませ。
評論的なことは全部省いて、太宰の表現力、情景描写の美しさ、人間の悲しさ、滑稽さ、こういったものが溢れておりますこの作品を楽しんで頂けますよう。
※この記事での作品からの引用は、パコが中略、まとめているもので、太宰治氏の本文そのままではありません。