目標を実力の100倍に | 株式会社 丸信 社長のブログ

株式会社 丸信 社長のブログ

株式会社丸信 代表取締役 平木洋二のブログ
包装資材販売、シール・ラベルの印刷、紙器印刷加工業を営む株式会社丸信の社長のブログです。

実は35年以上も前の事を今も後悔している。

 

浜省の名曲「19のままさ」は予備校での恋をテーマにした曲で、浪人時代によく聴いたものだ。私が親不孝通りの老舗予備校で学ぶ2年前の1986年にリリースされた。

 

♪予備校の湿っぽい廊下であの娘をみつけた~♪



この曲を聴くと、自習室で毎日見かけてたあの娘の事を思い出す。

だが、後悔してるのは告白できなかった「あの娘」のことではない、、、

 

「目標設定」のことだ。

 

高校時代、全く勉強に身が入らず、高校3年でクラスビリまで落ちこぼれて、将来さえも悲観していたあの頃。現役ではどこの大学にも受からず、高校の同級生が誰もいない予備校でゼロから再出発したいとマイナーな予備校を選び、入寮した。

少子化とはまだ無縁で、どの大学も競争率が高く、「受験戦争」と言われていた頃だ。私なりに作戦を練った。

結論は最低の学力から一年で一定レベルの大学を目指すなら受験科目の少ない「私立」に絞るしかないと言うことだ。当時は決して裕福でもなく、学費や仕送りを工面してくれた両親には感謝しかない。

 予備校では「早慶上智理科選抜」というクラスを選んだが、負け癖が染みついていた私は早慶はおろか上智や理科大でさえ合格できるとは思ってもなく、本音では日大か法政くらいが妥当なラインで、もしも青学か中央に入れたらもうそれで十分嬉しいし、理科大なら望外だと考えていた。

 環境を変えた事は大正解で、予備校では英語の学力がどんどん伸びて安定した得点源となり、数学は最後まで苦手なままだったが、物理では先生に恵まれて、かなり力をつけることができた。それが物理学科を目指すきっかけとなる。最後の模試で初めて母校にC判定(合格率30%~50%)が出たので願書は一応出すことに。実際には滑り止めの夜間も含め10校に願書を出した。

 2月頭の受験一校目が母校だった。その物理の試験で予備校のテキストと全く同じ問題(確か粒子加速器の原理)が出題されたことでなんと!補欠合格してしまったのだ。

合格通知が自宅に届いたと母から連絡をもらい、文字通り「狂喜」した。これは高校の先生や同級生をかなり驚かせた。「まさかあの平木が・・」と。

 

だが、今でも時折思うのだ。

あの時、最初から最難関の大学を目指していたら、どうなってただろうかと、、

 今から10年くらい前、私と同じように高校ビリの成績から一年の浪人で慶応に入ったという保険の営業の方に出会った。その方は私よりも極端な戦略で受験科目を英語と小論文だけに絞り、慶応だけを受験して狙い通りに合格したと。慶応には英語と小論文だけで受験できる学部があるらしい。得意な英語と小論文だけなら或いは、、

 

経営者には東大卒など高学歴の方が少なくない。

彼らに負けたくないと思う反面、どこかで劣等感を感じ続けている。

「三田会」の話などされると心の中でクソーとなってしまうのも事実だ。

 私なんかでも、たまにお子さんの進学について相談されることがあるが、今の学力に関わらず、できるだけレベルの高い大学を目指すべきだとお答えしている。


ま、過去は変えられない、、


常に留年の恐怖と隣合わせで、難解な学問を仲間と助け合いながら勉強した4年間で自分の能力はかなり高まったと思えるから、あれは必然だったのだ。


人生成功のカギは目標設定にある

 

とある有名で高額な自己啓発教材の冒頭にはそう述べられているそうだ。(聴いたことはない)

30代半ばの頃に当時営業のコンサルをお願いしていた方から、講演CDを頂いた。

 

「徳田虎雄」

 

お名前は存じ上げなかったが、この人こそ、日本最大の医療法人グループ「徳洲会」の創業医師である。衆議院議員も4期務められた。徳之島の極貧の環境で育ち、幼い弟を夜間、医師に診てもらえず亡くされ、その悲しみや怒りが強い動機となって医者を志し、2浪、苦学の末、大阪大学医学部に合格するまでのお話、医師となり徳洲会病院を全国展開されていくお話などが熱く語られていた。(この方に対し賛否があるのは承知している)

この講演の中で繰り返し仰っていた人生成功のカギ、それが

 

「目標を実力の100倍に設定せよ」

 

だ。このCDを高校や予備校時代に聴いていたら、私の母校は別の学校になっていたかも知れない。でも幸運だったのは30代半ばという社会人としてまだまだ「伸びしろ」が大きい時にこれを聴けたこと。

それでも実力の100倍の目標を設定してきたとは言えない。

ただ、社会人の若い頃から仕事でもプライベートでも様々な目標設定をしてきた。もちろんすべてを達成できた訳ではない。しかしながら、

 

結構、達成しちゃったのだ。

 

ノートや本を読み返すと15年~20年くらい前に書いた目標が今、実際に達成されているのに驚く。今の自社の業態は30代の頃に詳細に描写し、本の余白に書いた内容とほぼ同じだ。

ナポレオン・ヒルは

 

頭の中で考えたことを心から信じられるなら、人はそれがどんなことでも達成できる

 

と述べた。この手の話にアレルギーをお持ちの方もおられるだろう。だが詳細は省くが、これは脳科学的に立証されつつあるようだ。脳には、一度目標を設定したら、その手段は最初は分からなくても、目標を追尾し続ける自動ナビゲーションシステムのような機能と、その目標に関わる情報や手段を探し続ける検索機能が備わっていることが分かってきている。

 マラソンのサブ4達成がまさにそうだった。マラソンを始めた時、いつかはサブ4(4時間以内のフルマラソン完走)を達成したいと目標設定したのだ。子供の頃、運動音痴の私が唯一平均以上だったのが長距離走。この記憶があったので、「やればできるではないか」と自分を信じることができた。そこから色んな障害が待ち受けていた。ひざ痛、肉刺(まめ)、練習時間の確保等、これらを克服する情報がどんどん集まってきて、それらのアイデアを実行することで、これら障害を次々に乗り越えていけたのだ。しかし思うのだ

 

サブ4は実力の100倍だっただろうか?と

 

始めた40歳の頃、肥満で全く運動してない状態だったことを思えば、私的には偉業と言っていいが、実力の100倍とは言い切れない。あの時、目標を「サブ3.5」に設定していたら自分だったら達成できたかも知れない。55歳となった今からではちょっと遅いだろうし、健康に良いとも思えない。

だが、やはり自分の実力の100倍に目標設定することの有用性は間違いないだろう。

 

散歩のついでに富士山に登った人はいない

 

著名な経営コンサルの小宮一慶さんが著書の中で何度も述べておられる。別に他人に公表する必要はない。自分の実力の100倍の目標を設定し、それを信じ、まず小さな一歩でも行動に移す。

 我々がかつて動物だった頃、自然界では常に危険と隣り合わせで、顕在意識を働かせて、リスク回避せざるを得なかった。つまり群れにいて、同じように行動する事が身を守る手段だったのだ。群れを離れ、単独で遠くに行くのは命の危険が付き纏う。その名残りが現状維持バイアスだろう。しかしこの現代日本ではそこまでの危険はない。だから潜在意識の力を借りて、遠くに行くべきなのだ。現在に安住して、変化の少ない穏やかな日々を過ごしながら、老人になるのはごめんだ。

 ここらで経営者人生の総仕上げとして実力の100倍の目標設定をしてみよう。

 

10年後にそれさえも達成して、あの時、もっと大きな目標を設定すべきだったと後悔したいものだ。


朝のオフィスにて


※徳田虎雄先生は先月7月10日に86歳で逝去されました。

謹んで哀悼の意を表します。

 

合掌