最後のプラハ ー2010年の夏 | PACK RATのブログ

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こちらは退職したあるシニアのブログサイトです。はるか昔の想い出話と無責任なひとり言を書き綴っています。

クレアの最近のスナップ写真

 

 

  

(左)ここはずいぶん古い橋の上ですが、南方向の眺めはなかなか素敵です。

(右)うちの近所ではここが一番標高が高く、北方向の眺望が開けています。

 

  

(左)先日のお墓掃除の際に登った、墓地の裏手にある鴻巣山緑地帯の展望台前です。残念ながら展望台は老朽化のため上れませんでした。

(右)4月に見つけた幼児用の麦わら帽子がまだ放置されたままでした。

 

 

 

黄金のプラハ

 

プラハの町は、9世紀後半ヴルダヴァ川を見下ろす丘の上に現在のプラハ城の礎が築かれて、その発展が始まった。14世紀になって、それまでのボヘミア王家は断絶するが、ルクセンブルク家から迎えられたフランス育ちのシャルルは大変な教養人であったようで、ボヘミア王カレル1世、神聖ローマ皇帝カール4世として、街作り、文化、教育、政治、経済などあらゆる分野の発展に尽力した。旧市庁舎、カレル橋、プラハ城、ストラホフ修道院など「プラハの歴史地区」として世界遺産に登録されている建物はこの時代に建てられた。

 

 

最後のプラハ,2010

 

最初にプラハを訪れたのが共産主義体制下の1981年、2度目がビロード革命直後の1990年、3度目が2004年、4度目が2006年であった。そしてこの5回目が2010年、私にとっては最後のプラハとなった。

 

自分の出張用務が終わった後は、イーリ・ハニカ、ヨセフ・クーベックなどチェコスロバキア時代からの知人にお別れの挨拶を述べて、4年ぶりのプラハの街歩きを楽しんだ。なお、2004年と2006年と同様、2010年のこの時も妻を帯同した。

 

今回は、市民会館の南側に隣接する火薬塔から西の方向に歩いてみようと思う。

《お断り》以下の文章では、ひと続きの(まる1日かけての)街歩きのように記述していますが、実際には、用務の合間を利用した2、3回の街歩きをまとめて編集したものです。

 

 

火薬塔とその展望台

 

火薬塔は1475年に建てられた後期ゴシック様式の建造物である。旧市街への入り口ゲートとなり、かつては銃の火薬庫として使用されていた。

 

  

(左)20世紀初頭に建てられたアール・ヌーヴォーの市民会館のとなりに立つ火薬塔

(右)火薬塔展望台への入り口にて(妻とガイドの女性)

 

 

火薬塔展望台より西、プラハ城方面の眺め。手前に2本の塔がある建物は12世紀創建のティーン(の前の聖母マリア)教会。

 

上の写真よりやや左方向の眺め:正面はペトシーンの丘だが、そこに見えるエッフェル塔のような形をしたペトシーン展望台タワー(1891年建造、高さ63.5 m)まで歩いて行くことにした。

 

 

旧市庁舎とその塔展望台、および天文時計

 

旧市庁舎の塔は14世紀に建てられ、中世には火の見櫓として使用された。天動説を反映した天文時計は15世紀終盤に設置され、16世紀に仕掛け時計が完成した。毎正時にゼンマイ仕掛けの十二使徒が登場する。

 

旧市庁舎の天文時計

 

旧市庁舎の塔展望台から見下ろした旧市街広場に立つ、15世紀の宗教改革の先導者ヤン・フスの像。

 

旧市庁舎の塔からのプラハ城方面の眺め

 

旧市庁舎を左手に見て正面はティーン聖母聖堂

 

細いカルドヴァ通りを抜けてカレル橋に向かう。うちのおばさんのピンクは迷子防止のいい目印になる。

 

前方に旧市街側の橋塔、さらにずっと向こうにプラハ城、右はクレメンティヌム。

 

 

カレル橋

 

全長516 m、幅9.5 m。このゴシック様式の石橋は1357年カレル1世の命により着工され、15世紀初頭に完成した。橋の両端にある橋塔は防衛のために建てられた。現在30体ある聖人像は17世紀後半から20世紀初頭にかけて、ローマのサン・タンジェロ橋を模倣して設置された。

 

 

  

(左)カレル橋上のマリオネットおじさん(2004、2006年に続き3回目のご対面)

(右)オルガンのパーフォーマーとは2006年に続き2回目のご対面

 

百塔の街と讃えられるにふさわしいカレル橋上からプラハ城方面の眺め

 

 

ヴォヤノヴィ庭園とツィヘルナー公園

 

  

プラハを訪れるたびに休憩をとったり、ランチをとったりするヴォヤノヴィ庭園:例年この時期、リンゴなどの果実が色付き、庭園内には飼育されている孔雀が闊歩している(孔雀の写真は省略)。

 

白鳥が戯れるツィヘルナー公園からのカレル橋の眺め(白鳥の写真省略)

 

 

ヴァルトシュテイン宮殿とその庭園

 

宗教戦争に端を発する30年戦争(1618〜1648年)において武勲を立てたヴァルトシュテインが17世紀(1624〜1630年)に建てたバロック様式の宮殿と庭園。庭園は映画「アマデウス」の撮影にも使われた。

 

ヴァルトシュテイン宮殿とその庭園

 

フランス庭園と回廊、およびヴィーナスの噴水

 

  

庭園の通路に沿って左右に並ぶ石像群

 

 

フラッチャニとマラー・ストラナ

 

カレル橋を渡ってしばらく休憩をとったのち坂道を上って、プラハ城前のフラッチャニ広場まで歩き、ここからまずロレッタ教会、ついでストラホフ修道院を訪れ、最後にペトシーン展望台タワーに上ってプラハの街並みを高所から展望することにした。

 

以下に関連する周辺マップ

 

 

ロレッタ教会

 

1626年に建てられたこの教会には、聖母マリアが受胎告知を受けたサンタ・カーサのレプリカがあることで知られる。教会の名称はサンタ・カーサが天使たちによってパレスチナのナザレからイタリアのロレッタ村に運ばれたとする伝説に由来する。

 

ロレッタ教会の外観

 

  

(左)天井のフレスコ画が美しい教会の回廊

(右)回廊から見た中庭

 

左手がサンタ・カーサ(聖なる家)

 

荘厳華麗な教会内の主祭壇

 

  

宝物室の聖体顕示台:(左)華やかな宝石で飾られたロブコヴィッチ家の聖体顕示台(1673)、(中)大きな真珠が施された聖体顕示台(1740)、(右)「プラハの太陽」と称される無数のダイアモンドが散りばめられた聖体顕示台(1699)。

 

 

ストラホフ修道院

 

1140年創建の修道院で、世界一美しい図書館を有するとして知られる。

 

修復作業中の「哲学の間」、1783年完成。天井のフレスコ画が美しい。5万冊の書籍が収蔵されているという。

 

1671年完成、バロック様式の「神学の間」。蔵書数1万6千冊を誇る。天井には学問と知識を讃えるフレスコ画が描かれ、左端には18世紀の天球儀が置かれている。

 

  

「神学の間」の(左)天井部、(右)左側面に注目した写真

 

 

ペトシーン展望台タワー

 

1891年建造、高さ63.5 mの展望塔。記憶が曖昧だが有料のエレベーターで上って、階段を歩いて下ったと思う。

 

展望台から見下ろしたロレッタ教会

 

展望台から見下ろしたストラホフ修道院

 

展望台からプラハ城の眺め

 

展望台から旧市街方面の眺め(1):蛇行したヴルダヴァ川の手前側がマラー・ストラナ、向こう側が旧市街。

 

展望台から旧市街方面の眺め(2):上の写真よりやや右に移動。茶色の屋根瓦の家並みが美しい。出発点とした火薬塔、ティーン聖母教会の二つの塔、旧市庁舎の塔、他にはルドルフィヌム、クレメンティヌムの建物が見える。

 

 

 

 

  

プラハ城の入り口に戻ると、ちょうど衛兵の交代中であった。

 

兵舎に戻る衛兵たちのあとについて行き、プラハ城の反対側の出入口から出た。この晩はそこから近いレストラン、VILLA RICHTERで夕食をとった。

 

 

2010年9月2日、地下鉄C線「コビリシ」から乗車し、「ムゼウム」でA線に乗り換えた。「マロストランスカ」、「フラチャンスカ」という駅名一言のみの、低音ボイス女性の車内アナウンスを聞きながら「デヴィッカ」で下車した。そこから、119番の空港行きバスに乗車してプラハを後にした。

 

  

(左)「コビリシ」の地下鉄駅ホーム、(中、右)空港線119番のデヴィッカバス停

 

 

それ以降はプラハを訪れたことはない。もしも、もう一度プラハに行くことができたらまずどこを目指すだろうか?それはヴォヤノヴィ公園だ。今年も今頃はリンゴが赤く色づいていることだろう。

 

ヴォヤノヴィ公園は古い歴史を有するが、その名称は20世紀初頭のチェコの有名な俳優Eduard Vojanに由来する。

 

  

(左)Vojanovy公園で拾ったリンゴ。拾わなくても、物欲しそうな顔をしてリンゴの木を眺めていれば、その辺のお婆ちゃんが近づいてきてもいでくれる。

(右)ホテルの部屋でよく洗ったリンゴを、部屋のテーブル上にもともとあったフルーツのプレート上に混ぜても区別はつかない。

 

なお、2010年のプラハでは、コングレス・コンサートはスキップして、1泊2日のチェスキー・クルムロフへのエクスカーションに参加しました。そのときの模様は別途記述したいと思います。