「決して赦す事はできない」と皆さんは感じた事があるでしょうか?復讐心にも繋がる思いです。では、復讐を遂げたら、思いは解けるでしょうか?解ける人もいるかもしれませんが、むしろ、虚しさや、やり場の無い悲しみのようなものを感じる人もいるかも知れません。

 

2001年春の出来事の後、私は劉正玉氏に強い怒りを覚えたし、その葛藤は2005年くらいまで続きました。しかし、恨んではいけないのは、イエス・キリストが示した精神を知っている人なら、わかる事です。さらに、堕落した人間を救うために摂理されて来た神様を知るのなら、なおさらです。

 

何が正しく何が間違っているのか知る事と、復讐をする事は違います。

 

堕落した人間を救う神様の摂理とは、全人類を救う事を意図します。全人類となれば、当然、善人もいれば悪人もいます。嘘を言い、徒党を組んで、私利私欲に走る人もいます。

 

では、そんな人たちに陥れられて、罪人の扱いを受けたり、誹謗中傷を受けたり、拷問のような事を受けた人達は、恨んで復讐すれば良いのでしょうか?

 

例を挙げてみましょう。

 

文亨進氏というのは、独生女信仰に至る間違った考えを持つようになった韓鶴子総裁が、文顯進会長に対抗するために、擁立した人です。だから、出世したのは、母のおかげです。ところが、文鮮明師が他界した後、自分が後継者になると思っていたのに、韓鶴子総裁にないがしろにされた文亨進氏は怒り、母親をバビロンの大淫婦とまで呼び、ネットで、その自分のスピーチを流しました。

 

今、韓鶴子総裁は、裁判を受け、辱めを受けています。今になれば、韓鶴子総裁が間違った思想を持った事が、統一教会が崩壊している根本にある事も、知ろうと知れば、すぐに知る事ができます。では、韓鶴子総裁を断罪すれば終わるのでしょうか?

 

もちろん、いまだに韓鶴子総裁を崇拝する人たちもいます。ですから、過ちの有り様は、段階や様相があって、それは雲散霧消しようとしているかのようです。

 

雲や霧に対して、消えないものの象徴は岩です。イエス・キリストは山上の垂訓で、岩の上に家を建てる人と砂の上に家を建てる人を対比し、岩の上に建てるなら、「雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない」と語りました。

 

では、今の私達にとって、「岩の上」とは何のことでしょうか?

 

2001年の春が、統一教会の行方を左右する大分岐点ではあり、その時に大きな失敗があったのですが、しかし、その間違いがあったとしても、2013年1月13日に向けて勝利的基盤ができる可能性はありました。

 

基盤には外的基盤も、内的基盤もあるのですが、内的基盤は、文鮮明師と文顯進会長が貫いた信仰と精神だったはずで、それは真の愛を抜きに語ることはできないと感じます。

 

復讐心というのは真の愛とは遠いものです。独善というのも、真の愛とは遠いものです。正義感だけでは罠にハマる理由もそこにあります。

 

文鮮明師は、実子より弟子を愛する哲学も持ち、文顯進会長はそれを理解していました。2001年の春、統一教会のリーダー達の不信仰により、御自分の子が他界した痛みがあっても、世界を巡り、笑顔で歌まで歌って、皆を愛したのはそれを示しています。

 

今も、この「岩」は失われていません。

 

これについて書こうとすれば、私自身の中に、難しい思いが蘇ります。それは、文鮮明師と文顯進会長の姿を思い出すからです。そして、「決して赦す事はできない」と言うのが当たり前の世の中に住み、神様を信じる事そのものが難しい中、理解されるかどうか、わからないからです。