今の時代は、人間の心霊が個人の救いの段階から家庭の救いの段階に引き上がるべき時代です。ですから、私はアダム家庭の復帰や、アベル・カイン復帰という内容にこだわるのですが、個人の心霊の段階においても、興味深いことは色々あります。

 

私は元々、宗教や霊などというものを全く否定していた人でした。それが転換したのは、念力を試した時に、使えてしまった事がきっかけでした。目に見えないもの、心と物のつながり、死んでも意識だけが残る可能性などについて、一気に目が開けました。そこから探究が始まりました。

 

人の意識というものは、なかなか把握しづらいもので、哲学的に意識を考察したり、心理学的に意識を把握しようとしたり、瞑想をしてみたり、様々に試しました。善とか悪とか定義するのは何で、死後の世界があるのなら、この世の人生の意味は何か、など様々に考えましたし、様々な宗教と哲学思想や、壮大な歴史の繰り返しを見つけたトインビーの思想などにも関心を持ち、1年くらい費やしました。

 

しかし、唯一神で創造主である神様を信じるというのは、飛躍が必要でした。その飛躍を可能にしたのが、原理というものでした。イエス・キリストが神ではなく人間だった、というのは、代表的一神教であるキリスト教に対する疑問を解決しました。文化人類学的に、キリスト教を分類していた心の壁が崩れて、壮大な歴史の流れの中で、人間の救済を目指す神様を見つけることができました。

 

いざ信仰心というものを持つようになると、全くのゼロから自分を出発させるような事になりました。おそらく、私のように、原理を聞いて大転換したような人というのは、統一教会の中に沢山いました。

 

しかし、統一教会の中で学んだのは、純粋な、神様が立てた原理ではありませんでした。むしろ、統一教会の中で解釈された、統一教会の原理でした。そこにはズレがあったのは、分裂以降、とても明白になりましたが、信仰の初期に、そんなことはわかりませんでした。

 

このズレを最も敏感に感じていたのは、多分、文鮮明師のお子さん達です。お子さん達の目には、統一教会は、自分たちの父を神様のような超人として崇める偽善の団体に見えました。お子さん達は、自分たちの父が、全てをいつも知っている超人ではないことが、当たり前の事としてわかるのに、教会のリーダー達は、「あなたのお父様は、目を見れば全てがわかるのです」と、教会員に教えるように語りました。そこから葛藤が生じました。お子さん達の中には、偽善を嫌い信仰心を失う人もいました。しかし、自分の父が人間であるという事実から、神様に対する信仰を深めた人もいました。それが、文顯進会長でした。

 

私は、イエス・キリストが人間だったことがわかった事が信仰のきっかけだったので、多少なりとも、文鮮明師が人間だという事実から信仰が深まるというのが、わかるような気がすることもあります。

 

個人の心霊という事に戻りますが、原理の中には、個人の心霊に関連した、とても有意義な内容があります。それについて少し書いておきたいと思います。私がそれをとても貴重に思うようになったのは、分裂が起きた後の事でした。

 

(続く)