イエス・キリストが語るまで、人類は神様が父であるという概念を持っていませんでした。今は世界中でクリスチャンが「主よ、天の父よ」と祈っています。そのような時代が拓けたのは神様からの恩恵の故であり、原理講論で「堕落人間」と呼ばれる私達が、神様との関係を失った人間が自らの能力だけで、神様との父子関係を悟ることはできませんでした。

 

文鮮明師は、「真の父母」、「真の家庭」という言葉と概念を私達に教えました。「真」という概念を説明する中で、文鮮明師はメートル原器に言及した事がありますが、「真の」とは簡単に言えば、「神様が願った本然の」という意味になると思われます。つまり、神様に創造目的があり、それに沿って神様を中心として父母となり、家庭をなすという神様の理想があった、ということになります。でも、この「真の父母」、「真の家庭」という概念と意味を、私達「堕落人間」が自らの能力だけで探し出すことはできませんでした。

 

前回の記事で、アベルが立てる先例に学ぶという内容を含めたのですが、これに関しては、もっと多くの内容があると思っています。しかし、先例という事の前に、統一教会では疎かにされた、少し基本的な事を書いておきたいと思います。

 

以下は文鮮明師のお話からです。

 

「既に肉身を持って生まれて成長してしまった私達は、文字通りに完成したアダムの体の中にある種の立場に戻ることはできません。ですから私達は、真の父母とその父母から生まれた真の子女と一体化することで、もう一度生まれるための条件を立てていくのです。

 

カインがアベルに完全に屈服することで、その二人が共に復帰されるという原理があるので、この原理によって、カインの立場にある人はアベルの立場にある真の父母、真の子女と一体化しなければなりません。そうすることで、私達は復帰された子女としての恵沢を受ける事ができるのです。」

 

もう皆さんが知っている内容を繰り返しているかのようですが、「文鮮明総裁はなぜ教権勢力を 『ルーシェルよりも悪い奴たち』と言ったのか」というビデオ(リンク)でわかるように、統一教会ではカインの子女がアベルの子女を蔑ろにしたどころか、攻撃を繰り返してしまいました。一体化などありませんでした。それは昨日の記事の中の例で書いたように、分裂が表面化するずっと前からの問題でした。

 

では、なぜこうなってしまったのでしょうか?

 

もちろん、教会指導者が教会組織、お金、位置、権力、名誉などを優先してしまったという、動機の乱れの問題はありますが、そのような乱れが組織の拡大で出て来る前から、真の子女と祝福家庭のアベル・カイン関係の理解において、不十分さがあったのではないか、と思われます。

 

例えば次のような問題があります。

·      統一教会ではアベル・カインを教会組織の上司と部下に当てはめて理解させました。そのような背景では、真の子女と祝福家庭のアベル・カイン関係が、組織上の理解に限定される可能性がありました。言い換えれば、組織から切り離された真の子女はアベルではない事につながります。

·      アベルの子女が生まれる時に、祝福を受けることで、もう一度生まれるというお話は教会員に伝えられましたが、統一教会では、祝福とは、受ければ天国に行くチケットか何かのように思われていました。そのような理解では、アベルの子女は、自分が天国行きにチケットをもらうための門か何かのような理解になってしまい、祝福を受けたら必要のない存在になってしまいかねません。また、祝福を受けた後の、真の家庭に対する祝福家庭の責任と、自分が三大祝福を成就する責任が、不明確になってしまう可能性がありました。

·      アベルの子女が生まれる時に、祝福を受けることで、もう一度生まれるという教えだけしかなかったなら、祝福子女にとってアベルの子女は必要でしょうか?祝福子女には、「なぜ真の子女が自分に必要なのか?」など、様々な疑問を解決できないでいる場合もあります。また、一世にとっては、真の子女は二世達のリーダーで、一世は真の父母に従えば良い、となる傾向がありました。

·      36家庭などの先輩家庭が、真の子女の尊さを全く教えなかったというのではないのですが、いざ文顯進会長がリーダーとして登場し、統一教会指導者の不足を指摘するようになると、反逆するようになった例が多くあります。それはつまり、真の子女が自分の生命線であるという認識が弱かったという、理解の不足を意味することになるでしょう。郭先生のように、真の子女が自分の生命線であることを教えた人は、むしろ異端者と思われたり、「自分の娘が文顯進会長の妻だから」と思われたのではないかと思います。

·      文顯進会長は、オリンピックに二度出場し、ハーバードでMBAを取得し、さらに統一神学校を卒業した人です。常識的に考えても、統一教会の指導者達とは経歴と能力が比較になりません。資格や能力が無い人に従う苦労を神様はさせようとしたのではないということで、しっかりと準備された人が現れたのでした。たとえそのような準備があったとしても、統一教会の指導者達が、文顯進会長を尊敬し頭を下げる事を簡単に止めて、訴訟攻撃にまで走ったというのは、真の子女と祝福家庭の関係の理解に対する脆弱さの現れとしか思えません。

 

例を挙げればキリが無い気がしますが、昨日書いた、年配のリーダーに対する不服従の例でもわかるように、私は自分の信仰観と統一教会のリーダーの方達の言動にギャップを感じていました。それは、文顯進会長に出会う前からの事です。統一教会には、「神様との直接的関係を求めるのは堕落性だ。私のように上司のために頑張れ。」と言う人もいましたが、最下層で車中生活をしていた私は何も言えなかったものの、「それは違う」と思いました。

 

私たちの世代は、信仰の初期において、原理講義を何度も聞きましたし、神様の声を聞いたり、霊現象を体験したり、霊的な夢を見たりした人もあちこちにいました。そこでリーダーをしていた人達は、当時は、「アベルの子女とカインの子女」に関して教えていました。でも、分裂以降、文顯進会長を攻撃する先頭に立った方達が目立ちます。

 

なぜこうなったのか、と思う時、「真の子女と祝福家庭のアベル・カイン関係に関する理解に問題があった」という点を考えざるを得ません。霊的理解と原理による知的理解の両方が、真の子女と祝福家庭のアベル・カイン関係を正しく理解するようにできるチャンスはあった、と思うのですが、「真の父母」を神格化して、「真の父母を信じて統一教会員になり、祝福を受ければ天国に行く」と信じるような信仰観が行き渡った教会では、真の子女と祝福家庭のアベル・カイン関係の理解は定着しなかったのだろうと思われます。

 

(続く)