私達、初期に復帰された人たちは、復帰されたカインの子女だ、という点について前回書きました。
カインの子女には二つの使命があります。一つは、真の家庭に対するカインの使命で、もう一つは世界に対するアベルの使命です。
図にして示すなら、カインとしての使命は以下のようになると考えられます。
それに対して、アベルとしての使命は以下のようになると考えられます。氏族メシアとか、国家メシアなどは、アベルの使命の例です。
歴史上、摂理的人物たちが失敗してきたのは、カインとしての責任分担です。洗礼ヨハネが代表的例です。洗礼ヨハネは、人々が「メシアではないか」と思うほど、素晴らしい信仰生活をして、人望を集めていました。しかし、イエス様に対する使命を果たせませんでした。ゆえに、祝福家庭ともなれず、復帰されたカインの子女にもなれなかったし、世界に対するアベルとしての使命も果たせず、処刑されたということになります。
キリスト教の指導者も、同じ過ちをしたのは皆さんご存知の通りですが、統一教会の指導者も同じ間違いを繰り返しました。今、統一教会において、氏族的メシアとか、何かのアベル的使命をある程度勝利した人たちがいなかったのではありません。でも、連帯的に失敗したのは、真の家庭に対するカインとしての使命です。連帯的とは、たとえ自分がアベルの子女を守るために最善を尽くしたとしても、連帯的な責任を負う事になったという事です。
本来、私たちが本当に神様を中心としていたのなら、文顯進会長に攻撃を仕掛けることなどありえませんでした。神様の原理と摂理、そして、霊的啓示を通してでも、真の家庭の意味と価値が、明らかだったはずだからです。しかし、そのようになるのに障害となるのが、エゴ、自分というものだ、と言わざるを得ません。4月9日のお話でも、文顯進会長は、サタンはエゴを通して働くのを指摘し、神様を中心とするべき事を語っていました。
事情の複雑さが、自分を中心としているのを覆い隠している事が多いの、少し例をあげますが、たとえば文顯進会長が日本のリーダー達の不正を正そうとした2001年、もしも神様を中心として優先事項を判断するのなら、文顯進会長を守るのが最優先でした。たとえ日本統一教会にどんな事情があり、組織が大事だと思ったとしても、文顯進会長を守るのが最優先でした。リーダー達は、文顯進会長を利用するような事を考えてもいけなかったし、文顯進会長を背中からナイフで刺すような事をしてもいけませんでした。私は当時を思い出すと、もっと深く見抜くべきだったと後悔があります。
世界中の統一教会に様々な事情があったし、皆が無理をしている状態でした。その時に、リーダー達の心にあったのは何だったでしょうか?目に見えるものだったでしょうか、目に見えないものだったでしょうか?先日も書きましたが、目に見えるものの例とは、超人的メシア、組織、位置、名誉、お金、人材などです。目に見えないものとは、神様であり、神様を源とする原理や摂理です。
原理講論には、堕落性を脱ぐ蕩減条件という内容があります。以下の4つの内容です。
自分というものを超えて、神様の立場と同じ立場を取る、つまり、神様を中心とする自分となることから、カインはアベルと一つとなり、神様の愛を受ける立場に立つことができるというのが原理です。でも、神様を中心とした自分になるというのは、自分が追求しないといけない内容です。原理講論に書かれている堕落性は障害物です。統一教会では、堕落性を脱ぐという内容は「もうわかっている」と思ったかもしれない内容ですが、アベルである顯進ニムと一つになれなかったというのが歴史的事実です。
堕落性を脱ぐための蕩減条件
1. アダムの立場にいるアベルを愛して、神の立場にあるのと同じ立場をとる。
2. アダムの立場にいるアベルを中保として、彼を通じて神の愛を受ける立場をとる. . . 自分の位置を守る。
3. アダムの立場にいるアベルに従順に屈服して、彼の主管を受ける立場に立つ . . . 主管性を正しく立てる
4. アベルの相対となる立場をとり、アベルから善のみ言を受けて、前の繁殖をする立場に立つ。
私たちは、この世で生きる中で、目に見える、組織や位置やお金などを避けることができません。でも、神様を中心とする努力は継続することができます。
(続く)