米国で4月9日、文顯進会長夫妻を中心として、真の父母の日が祝われました。宗教の壁を超えた世界的祝福が始まった2月17日の後で、最初の祝日でした。

 

私達は、先駆けて祝福を受けた人たちであるゆえに、たとえ世界的祝福が始まっても、より高い基準を目指す使命があると私は思っていましたが、4月9日のお話はまさにそれが明らかになった日だと感じられました。

 

終わった後で、米国の会員の方達に、2月16日のお話と4月9日のお話を解説しながら、私の思うところを伝える集いを持ちました。

 

祝福家庭とは、神様を中心とした家庭であり、神様を中心とした家庭を築くためには、まず個人が神様を中心とした個人となる必要があります。これは単に神様が存在する事を信じるのではないのは明らかです。4月9日のお話では、神様を中心とする事、しない事の具体的なお話も出て来ました。

 

統一教会においては、原理を教える目的が、神観、罪観、メシア観と言って、神様が存在し、自分に罪があり、メシアが必要であることを認識することに置かれることが多かったので、結論的に、メシアを信じてメシアの代身である教会リーダーに従う、統一教会員である事が信仰であるかのように思われるところがあったと思います。

 

この信仰観の中においてメシアとは、全てを見通し間違いをしない超人的存在のことです。その超人的メシアを信じることが信仰だと見なされていたと思います。では、この信仰観は本当に神様を中心としていたのでしょうか?

 

人間にとって神様を中心とするのは難しいことです。目に見えないからです。空気のようだと表現する人もいますが、空気に愛は満ちておらず、意思もなければ、人間に話しかけることもありません。

 

人は信仰において、目に見えるものを求める傾向があると思います。モーセの時代、見えない神様と会っているモーセを待ちきれず、人々が金の子牛を作って祭壇を作ったという話があります。イエス様が殺され後、ギリシャ・ローマを伝道した人たちは、多神教の神々を信じる人たちを伝道するために、イエス様も神であるとして偶像化した歴史があります。

 

同じような事が統一教会でも起きていて、文鮮明師は全てを見通し間違いをしない超人だと教会リーダー達は、教えていました。しかし、それが神様を中心とする信仰を見失わせることになりました。目に見えるものを崇めることで、目に見えないものを見失いました。もし見失っていなかったら、真の家庭の重要性を見失うことなどあり得ません。

 

神様を中心とすることは、原理的な人間のあり方を学び、様々な例を知る中で、学ぶことができるものだと思います。それが、私達それぞれが真の父母になる道でもあります。

 

神様を中心とすることを強く意識させられた真の父母の日でした。