一般に、祝福という言葉は、「前途を祝福する」とか、「結婚を祝福する」とか、使われる言葉です。聖書の創世記には、三大祝福として、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と、神様が人間始祖を祝福した事が書かれています。つまり、自分と自分の家庭を神様の創造目的と理想に合致させるように命じた、という事になります。

 

「生めよ」とは神様の理想とする個人となる事、「ふえよ、地に満ちよ」とは、神様の理想とする家庭となり、善の子女を繁殖する事、「地を従わせよ」とは、神様の創造目的に従って万物を治める事となります。

 

文鮮明師が行った祝福式は、結婚だけのためのものではなく、本来、この三大祝福の成就に向けての、人類の再出発の儀式です。なぜ再出発しなければならないかと言えば、文鮮明師が何度も教えたように、人間始祖が与えられた自由を間違って使い、神様との関係を切ってしまったので、人間は神様が親である事がわからない孤児のような存在になってしまったからです。

 

自分が孤児のような存在であることは言われてみなければわからないように、自分と神様との関係は、必ずしも自分だけで把握できるものではないのですが、自分で感じてみる事ができる場合もあります。

 

例えば、「神様」と、唯一なる創造主を呼んでみれば、その感覚は自分で感じる事ができます。それまで神様との関係を取り戻す努力が、その人やその家系でされていなければ、呼んでも何の感覚もないかもしれません。しかし、世界には、神様との関係を結んだ人たちがいて、中には、「神様」と呼べば、神様がすぐに現れ、親として実感できるという人もいます。

 

つまり、神様との絶対的父子関係を山の頂上に例えれば、山に向かう道も、場所の違いも、沢山あって、人はそのどこかにいる事になります。人は自分が存在している事と、自分が自分を認識する心から逃れることはできません。その意識に神様が臨在しているかいないか、距離があるかないか、それは自分で認識可能な事です。自分を無にする修行や荒業をし、霊的体験をしたとしても、神様との直接的関係であることは多くないはずです。それくらい、人間と神様の間には距離がある事が多い、というのは、努力をする時に感じます。

 

その状況は全ての人に当てはまるのですから、祝福という再出発の必要性は、宗教や思想に関わりなく当てはまる事になります。最初に書いたように、重力を信じていてもいなくても、重力は全ての人に働くように、霊的法則も全ての人に当てはまります

 

文顯進会長は、統一教会がした過ちを、2月16日の国際会議の中で、以下のように指摘しました。

 

「神様を中心とした家庭のための祝福運動を、あらゆる信仰を持つ者達の間で推進するよりも、統一教会への改宗の特有な儀式として、保証された“天国へのチケット”として、祝福を誤って特徴づけました。」

 

言い換えれば、本来の祝福とは、改宗が必要のないものであり、どんな場所からでも山の頂上に向かう出発であって、参加すれば天国行きが保証される“天国へのチケット”のようなものではない、という事になります。

 

文顯進会長は、普遍的祝福に関連して、以下のように2月16日の国際会議で語っています。

 

「これが、父が超国境や超文化の結婚祝福を生存中に始めた理由です。父は、祝福を、神様との新しい聖約を象徴する摂理的な取り組みとして構想しました。

 

その聖約は、全人類が、神様の直接主管に連結するようにし、それにより、人類の堕落前にアダムとエバに神様が与えたかった三大祝福を実現できるようにするのです。

 

人類家族を分断する全ての、宗教的、宗派的隔たりを超えて、父が信じたのは、全ての人類の“普遍的救い”であり、それは神様の創造目的に根差し、神様が全ての宗教伝統に与えた普遍的原理と価値に根差しました。

 

父は、平和世界の基盤として神様を中心とした家庭を築く事により、全人類が神様の理想を掲げるように鼓舞する、世界的祝福運動を構想しました。孝子として、父の使命を継続し拡大する事を私は天の前に約束しました。私が今始める祝福運動を通して、私はその約束を守っているのです。」