科学文明の発達が、世界には神様が定めた法則があるはずだと信じた、ごく少数の科学者によって開拓されたように、新しい文明も、少数の人達によって開拓された例が歴史にはあります。それが、米国の建国者達によって開拓された、人間の基本的人権と自由を、神様から創造された人間である事を認識することで、普遍的に全人類に認める文明です。そこから“神様の下の一国家”を掲げる国が出発し、世界に影響を与えました。

 

これに言及しながら、文顯進会長は、“神様の下の一家族”を掲げる新しい文明が、家庭単位で出発して、大きな変化をもたらし、文明の変革をもたらす事ができると語りました。その変革において、大きな役割を果たすのが、なぜ神様は宇宙と人間を創造したのかを知り、その観点から理想的家庭の目的と秩序を知る事だ、と語り、神様の創造目的に関するお話へと続けられました。

 

人は、どんな人が理想的で、どんな家庭が理想的かを、感じる事ができます。世の中で偉人だと称賛される人、立派な家庭だと称賛される家庭には、世界に共通する要素があります。犯罪に手を染める人を立派だとは言わず、不和と争いの絶えない家庭を立派だとは言いません。

 

では、立派な人や家庭というのは自動的にそうなったのかと言うと、そうではありません。努力の賜物です。「善で愛で完璧な神様であるのなら、どうしてこの世に悪や不幸があるのか」という疑問に悩まされたのが、神様を信じた人達だったのですが、善に向かうか悪に向かうか、幸福を得るか、不幸になるか、自分の決定と努力が大きく左右するのは、誰でもわかることです。運、不運もあるものの、自分の努力が不可欠なのは、自明な事です。

 

文顯進会長が2月16日の国際会議で語ったお話は、この人間の努力がどのように神様の創造目的に結びつくのかを説明し、さらには、社会、国家、世界をつくるという、神様の共同創造者としての人間の姿を明確にするものでした。共同創造するとは、つまり、神様と人間にそれぞれの責任分担があるという事であり、これは人々を悩ませた多くの問題を解決します。

 

例えば、宗教を信じる人が悪い事をした例は、歴史に数多くあります。「救い主を信じた人が、どうして人をあざむき過ちを犯すのか」という疑問となり、救い主を信じれば救われるなら、どんな過ちをしても信仰があれば良いのか、という疑問ともなります。しかし、形式的宗教より倫理や道徳を重んじる人にとって明らかなように、自分が良い人間になるかならないかは、環境の問題はあるものの、自分次第、自分の責任です。ですから、犯罪者に対する裁判も、環境の問題に同情を受けることはできるものの、その人の責任が問われます。

 

では、神様の責任分担とはどのようなものでしょうか?それは歴史を見れば察する事ができるものです。まずは、この地球という環境です。物理学で“(人間のために)微調整された宇宙”が語られるように、神様は人間のために、この地球の環境を準備されました。さらに、人間には動物に無い知性や霊性を与え、真理や善や義を識別する能力を与え、男性女性を設定することにより、愛を実践し、子女を繁殖する能力を与えられました。そして、何よりも、神様との関係を結べる能力を与えました。犬に神様の愛について語っても、犬にはわかりません。人間は特別です。

 

つまりは、神様は、人間が神様との関係を結んで、人間が自分と自分の家庭を神様の創造目的と理想に合致させる努力をできるように準備されました。そして、神様が人間に自分の責任分担を果たせと祝福したのが、聖書にも出ています。それが、文顯進会長がお話の中で言及した、神様の人間に対する三大祝福であり、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ」と創世記にあります。

 

(続く)