文顯進会長は、「歴史を通して、神様は個人と家庭を通して働いたのであり、教会を通して働いたのではない」と最近頻繁に言われています。

 

今朝、文鮮明師の祈祷文の中で、以下のようにあるのを見ながら、いつの頃からか、統一教会は、変わってしまった、という事を祈り見つめていました。

 

「この群れはこの地上から追われた者達であり、教団の前に捨てられた者達である事を知っております。(1959年)」

 

1959年の頃の、「この群れ」は、キリスト教団から追われて捨てられた人達を意味していました。キリスト教団としては受け入れられなかった事を、受け入れて信じて従った一人一人を意味していました。

 

しかし、いつからか、「この群れ」は統一教会という教団になってしまい、信者に対する強者の立場に立つようになりました。そして、信者に教団の理屈と主張を強要するようになりました。これは様々な形で現れましたが、例えば日本教会での献金システムや脅しです。

 

日本統一教会は信仰の自由を主張していますが、実質は、教団の権益追求の自由を主張していると思われ、信仰の自由は教団の権益追求の道具になっていると見受けられます。

 

教団などの団体の権益に対して、個人の信仰の自由を求めて海を渡ったのが、ピリグリム・ファーザーズでした。教団は、強くなると、除名処分や魔女狩りをする例がありますが、強大になったキリスト教が腐敗した時、神様との関係を求めて宗教改革が起き、その実りのように、団体の権力に屈しなかった人達が米国で信仰の祖となりました。

 

もちろん、現実的な訴訟などにおいては、団体名で争われる事があるわけですが、信仰の自由は、団体に関してのものである前に、個人に対するものです。その個人の自由を侵害し家庭を破壊した、というのが、日本の統一教会に対する糾弾の中心にあります。

 

文鮮明師に従った人達は、昔は弱者でした。神様は、その人達に、個人と家庭に働いたのでした。それが大きくなり、信者に対する強者となり、共産主義に対抗する中で、政治権力と結びつくようになった時代、教会という団体が信仰の中心になりました。

 

そして、文鮮明師の教えの中心にあり、神様の摂理の中心にある、神様の真の家庭、神様の愛と生命と血統の教えが見失われました。教団のリーダー達は自分達の権益を優先して、文鮮明師の家庭を破壊し、韓総裁は、その影響の中で、文鮮明師の血統を否定し、長子を追いやりました。

 

彼らは世界で30の訴訟を起こし、文顯進会長を追い詰めました。その中心的訴訟がU C I訴訟であり、教団の嘘を信じた地方裁判所判事によって、一時は、700億円の損害賠償が文顯進会長に求められました。もしこれが控訴審でも通れば、文顯進会長の人生は終わったようなものだったかも知れません。しかし、米国控訴審は、文顯進会長をはじめとする人達の信仰の自由を理由に、700億円の損害賠償をくつがえし、差し戻しを受けた地方裁判所は、文顯進会長の側の完全勝利の判決をしました。これは、米国で信仰の自由が、政府と教団の圧力から守られた代表的な例になる裁判です。

 

統一教会で信者が受けた祝福とは、文鮮明師の家庭が土台となっているのに、統一教会に属する事が祝福の条件となり、教会リーダー達に従って文鮮明師の家庭を破壊し、長子を十字架にかけようとする事になる中で、祝福家庭の資格を失う事態となり、統一教会員であることと、祝福家庭であることは、別々の事になりました。今は、祝福が、統一教会員ではない、キリスト教やイスラム教やヒンズー教に向かおうとしています。

 

神様は個人と家庭を通して働くので、統一教会の中にいる一人一人が正しい選択をするしかないのですが、統一教会のリーダー達は、教団の弁護のために熱心でも、教会員は、統一教会の何かが間違った事を感じている方達もかなりいるのではないでしょうか?

 

文顯進会長が、「歴史を通して、神様は個人と家庭を通して働いた」と言われるように、ノアの時も、アブラハム、イサク、ヤコブの時も、モーセの時も、イエス様の時も、神様は個人と家庭を通して働きました。教団が使命を果たすようになるのは、神様が働く個人と家庭と一つになる時です。それがイエス様の時代にユダヤ教団に求められていた事でした。それが洗礼ヨハネ的人物の失敗により、一つになれず、迫害する立場にたつようになる時、教団にいることは、神様の御旨に反するようになります。