1935年に文鮮明師が書かれた「栄光の王冠」という詩があります。私はこの詩がイースト・ガーデンで、文鮮明師の前で、弟子の方によって読まれるのを聞いた事があります。2009年の分裂以降、その弟子の方達が文鮮明師を利用したのを見た私は、あまり良い思い出が、この詩に関してありませんでした。

 

文鮮明師という方は、この詩のように、だまされても信じ、裏切られても赦す事を実践した方で、その姿勢は、悪い人達には利用されてしまうものでした。

 

文鮮明師がこの詩を書かれたのは、まだ15歳くらいですが、「人をだますことしか知らぬ者たち」や「裏切った者たちを愛した」という言葉が出てくるのに、どのような体験をされたのかはわかりません。

 

私が、統一教会の高位のリーダーの方達の言動に驚くようになったのは、2001年以降、特に2009年以降ですが、それ以降、「人をだますことしか知らぬ者」や「裏切った者」という言葉が意味する事を理解するようになりました。

 

でも、間違った人たちを愛し赦し、神様の御旨は守る、という思いは持ち続け、その動機からできる限りの事をしました。

 

しかし、最近、文顯進会長と会い、言葉をもらう中で、「私は、失望の体験の中で、人を信じ愛する事を恐れるようになったのではないか」と思うようになりました。一種の自己防御を自覚した、という事です。同じ頃、私は文鮮明師が残した、神様の心情に関するお話や祈祷を頻繁に読むようになりました。

 

神様の言葉を霊的に受ける体験や、神様の御旨を直観的に理解したり、その霊的波動と愛の感覚を理解した体験はあるのですが、宗教や人種や国家の壁を超えて神様の下の一家族を本格的に目指す時代に入ろうとする今、自分には乗り越えて達成するべきものがあると思うようになりました。それは、自分の心の痛みと向き合うことでもあります。

 

それは、独生女信仰で語る神様と出会うことではなく、文鮮明師や文顯進会長が出会った神様との関係のことです。

 

「摂理の中心は誰か」と文顯進会長は教会員に何度も尋ねており、その答えは、「真の父母様」ではなく、「神様」ですが、統一教会ではいつからか、神様が忘れられてしまっているのに、それに気が付かなくされていると思われます。

 

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栄光の王冠

 

私が人を疑う時 私は苦痛を感じます。

私が人を審判する時 私は耐えられなくなります。

私が人を憎むと時 私は存在価値を失ってしまいます。

 

しかし もし信じれば 私はだまされてしまいます。

今宵 私は手のひらに頭を埋め 苦痛と悲しみに震えています。

私が間違っているのでしょうか。

そうです。私が間違っているのです。

 

 たとえ だまされたとしても 信じなければなりません。

たとえ 裏切られたとしても 赦さなければなりません。

 

憎む者までも ことごとく愛してください。

涙を拭いて 微笑みで迎えてください。

人をだますことしか知らぬ者たちを

裏切りながらも 悔い改めのできない者たちまでも・・・。

 

おお主よ! 愛するという痛みよ!

私のこの苦痛を御覧ください!

熱きこの胸に 主のみ手を当ててください!

私の心臓は 深き苦悩ゆえに 張り裂けんばかりです。

 

しかし 裏切った者たちを愛した時 私は勝利を勝ち取りました。

もし あなたも 私のように愛するならば

私はあなたに 「栄光の王冠」をお捧げします。