米国の現統一教会の方達に向けて、ハワード・セルフ氏の手紙(リンク)をメールしました。

 

この手紙を読んで、どれほど統一教会が窮状にあるかを知ったとしても、それでも独生女信仰を掲げる韓総裁のために献身し、「文顯進会長は第四アダムではない」と考える方達もおられるであろう、と思います。

 

先日、フィリピンで行事があった時に、文顯進会長に会おうとした現統一教会員がいました。分裂する前、文顯進会長に会えていた頃と同じように、文顯進会長に会おうとしました。しかし、統一教会員に話をする場所でもなく、文顯進会長が会おうとしないでいると、その教会員はそれでも会おうと現れました。その時に、文顯進会長は洗礼ヨハネの話をしました。

 

イエス様を不信し、不運に見舞われ牢獄に入れられた洗礼ヨハネは、獄中から、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」とイエス様に尋ねました。

 

イエス様は、「そうだ」という肯定も、「違う」という否定も、直接的にはせずに、「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 わたしにつまずかない人は幸いである。」と答えました。

 

つまり、洗礼ヨハネが自分で悟るという、責任分担を残した形の返答をされました。洗礼ヨハネは自分の責任で、悟らなければなりませんでした。しかし、悟る事ができませんでした。

 

統一教会のリーダーの皆さんというのは、文顯進会長に対して、洗礼ヨハネ的な立場にいました。洗礼ヨハネが使命を果たさない時、ユダヤの民全体が、イエス様を受け入れる事ができなくなりました。同じ事でした。統一教会のリーダー達も文顯進会長を受け入れず、大半の統一教会員も文顯進会長を受け入れませんでした。受け入れるどころか、激しく攻撃するか、あるいは、攻撃を傍観する事になりました。

 

悟るのは、自分の責任分担です。故に、文顯進会長は、フィリピンに尋ねてきた統一教会員に対して、洗礼ヨハネの話をしました。

 

もう昔と同じではありません。洗礼ヨハネに関して、イエス様は以下のように語られました。同じことが、統一教会のリーダー達と教会員に起きています。

 

「およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」

 

これから文顯進会長は世界的祝福運動をするようになりますが、その方達はキリスト教やイスラム教や、様々な宗教の方達となります。その方達の方が「大きい」ものとなり、今も統一教会に残る方達は、「小さなもの」となる事が待っています。

 

文顯進会長を第四アダムとして受け入れられない方達が統一教会には大半を占めています。私が書くことを傲慢と受け取るかも知れません。しかし、私は、文鮮明師の存命中、孝子孝女となろうとした、皆様の心と努力と犠牲を思う時、伝えるべきことは伝えなければならない、という思いになります。

 

蕩減と贖罪の扉は開いています。それをどのように受け止めるかは、各自の責任分担です。文鮮明師は、神様の心情に関して、以下のように語られています。

 

「どうして天は、アダム家庭に対するとき限りなく悲しい心情で対し、アベルに対する心とカインに対する心に、なぜ差をつけられたのでしょうか。本心から湧き出るその心情においては、皆が息子、娘の立場でしたが、差別する心情を持って接しなければならないのが天の事情でした。そのように悲しい立場にいらっしゃる天ですが、『アベルの祭物は受けて、自分の祭物は受けなかった』と言って、カインがアベルを打ち殺したことは、神様を打ったことよりも、もっと悔しい事実でした。

 

こうして人類の歴史は、神様の心情と因縁を結ぶ事ができないまま始まりました。神様の真の心情の前に反旗を翻して、裏切りと恨みと不満を吐露し始めた事が、カインの歴史なのです。そうして、神様の心情に対した歴史は途絶え、裏切りの歴史が代々にわたって引き継がれた世界が今日の天地だというのです。」