追悼:永遠の青年、アンドレ・プレヴィン | Pacific231のブログ -under construction-

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O, Mensch! Gib Acht! Was spricht die tiefe Mitternacht?

好きな音楽家の一人が、また世を去ってしまった。
アンドレ・プレヴィン。
本日早朝配信されたばかりのニュースによれば、昨28日、ニューヨーク、マンハッタンの自宅で死去、とのこと。享年89歳であった。

1929年、ドイツ・ベルリン生まれのユダヤ系ロシア人で、出生名はアンドレアス・ルートヴィヒ・プリヴィン。
ナチス政権を逃れて38年、10歳の年に家族とともに渡米し、43年に合衆国市民権を取得している。

指揮者、ピアニスト、作曲家、ジャズプレイヤー、映画音楽の作・編曲――
有り余る才能と多彩な活動に見るとおり、音楽の申し子のような人物だった。

指揮者としてはピエール・モントゥーの弟子であり、師匠ゆずりの人肌の温もりのある演奏が忘れ難い。
けっして才能まかせでない、人間味豊かな演奏といえばいいのか、同じモントゥーの弟子にあたるネヴィル・マリナーとどこか通じるものがあった。
その中で彼のさらなる特質といえば、「老い」というものを少しも感じさせない若々しさであったろう。
私にとってのプレヴィンのイメージは、常に「万年青年」であった。もちろん最良の意味においてである。
人は平等に歳を重ねるわけだが、老境に入ってさえ彼の演奏には常に清新な気風があった。「老成」とか「枯淡」などという言葉は彼には似合わない。

以下、プレヴィンの愛聴盤を三つ四つ・・・

 

R.シュトラウス:交響詩 「ツァラトゥストラはかく語りき」 Op.30 (ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団)

 

 R. Strauss: "Also sprach Zarathustra" Tondichtung, Op.30 - Wiener Philharmoniker

 

私の"シュトラウス・アレルギー"を取っ払ってくれた演奏。登山中の事故で亡くなった名物コンサート・マスター、ゲルハルト・ヘッツェルの絶妙のソロが花を添える名盤だ。
「アルプス交響曲」や「英雄の生涯」なども含め、このウィーン・フィルとの一連の録音がなかったら、シュトラウスを好んで聴くことは生涯なかったかもしれない。

 


ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー ほか(ピッツバーグ交響楽団)

 

 Gershwin: Rhapsody in Blue - Pittsburgh Symphony Orchestra

こちらは才気煥発、ブレヴィンの面目躍如たる演奏。
そもそもこの曲の弾き振りをやらせて、この人の右に出られる演奏家がいるとは思えない。

 


チャイコフスキー:バレエ音楽「白鳥の湖」Op.20、「眠れる森の美女」Op.66、「くるみ割り人形」Op.71

 (ロンドン交響楽団)

 

 Tchaikovsky: Le Lac des cygnes, Op.20 / La Belle au bois dormant, Op.66 / Casse‐noisette, Op.71

 - London Symphony Orchestra

これを落とすわけにはいかない。だいぶ前にも書いているが、ロンドン響という、どちらかといえば無機質なオケからこれほど華のある演奏を引き出した音楽性には脱帽である。彼の最大の偉業と言っていいのではないかと思う。

 


ヴォーン・ウィリアムズ:交響曲全集(ロンドン交響楽団)

 

 Vaughan Williams: Complete Symphonies - London Symphony Orchestra

録音史上二番目のRVW交響曲全集(一番目はボールト/ロンドン・フィル及びニュー・フィルハーモニア管)だが、一つのオケで通したものとしては初の全集である。
RVWの全集はマイ・ライブラリに三セットあるが、一番取り出す機会の多いのがこれだ。


まだまだ挙げたい音盤はあるけど長くなるのでこれくらいにして、彼の生涯を振り返ってみると・・・

 

少なくとも演奏、録音、作曲など音楽面に関しては、やりたいことをほぼやり尽くした、幸福な人生だったのではないだろうかと思う。勝手な感想には違いないが、広いジャンルでこれほど充実した仕事を遺した音楽家はそう多くないのではないか。

「マイ・フェア・レディ」に代表されるアカデミー賞4度の受賞だけではない。女優ミア・ファーローやヴァイオリニスト、 アンネ=ゾフィー・ムター との結婚生活(笑)など話題に事欠かない(?)人でもあった。

若いころの風貌はどことなくポール・マッカートニーに似ていた気がするが、彼のほうが少しばかりハンサムであった・・・と思う。
若き日の彼の画像でもって拙い追悼記事の終わりを飾るとしよう。