Frohes Neues Jahr 2016! | Pacific231のブログ -under construction-

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花火


新年おめでとうございます 本年も皆さまのご多幸をお祈り申し上げます


さて前記事つながりで2015年の聴き納めだが、あれこれ迷った挙句、ベートーヴェンの晩年のソナタから「第30番 ホ長調 作品109」にした。実際は30-32番の3曲を続けて聴いたあと、再度の30番で年越しというわけだった。

少し前の記事で書いているのでブログとしては重複になるかもしれないれど、ベートーヴェンの深奥に触れることができたと実感した作品の一つ。演奏はケンプである。

ケンプ
 Ludwig van Beethoven:Klaviersonaten Nos.30-32/Wilhelm Kempff (Klavier)
 
この演奏に「脳髄を射抜かれ」て、全集を買うハメになった顚末は先に書いたとおり。
そこでは「不思議な透明感」、「ほんのりと明るい透き通った寂しさ」と書いたが、どうも言葉というものは難しい。
「寂しさ」、「寂寥感」という単語はたぶん違う。「孤高」も違う。「諦観」も当たらない。「不思議な透明感」はかなり近いような気がする。達観、澄みきった心、そこから自然にあふれ出る音楽はどんな一語で表現すればいいのだろうか。

Youtubeから30番。連続再生で32番まで進む。



音楽表現は闊達さを増し、古典的ソナタの鋳型からは遠く離れる一方でポリフォニーへの回帰も見られるが、それは外見上のこと。
「ミサ・ソレムニス」、Kyrieの冒頭には、“Vom Herzen ‐ Möge es wieder zu Herzen gehen”(心より出でしもの、願わくば再び心へと至らんことを)――と記されているが、このソナタでは再び心へ至ろうが至るまいが、どちらでもよかったのではないかとさえ思える。
意志でも希求でもなく、心から溢れ、流れるままに書きとめただけの、しかしそれゆえに至純な音楽。

過去に聴いてきた晩年のソナタの演奏が、ケンプのものと違って今ひとつ心に響かなかった理由も何となく分かったような気がする。
多分これらの曲を弾くには、そのピアニストはまだ若かったのだ。晩年に至ってはじめて、ここでのケンプのような演奏ができるのだろう。同時に一人の聴き手にすぎない私も、やはり若かったに違いない。老境に差し掛かりつつある今、これらのソナタが心に沁みる。

新年にふさわしくない気難しげなブログになってしまったが、ご容赦。(まだギリ50代ですからねw)
・・・・・と聴きながら書いているうちに年を越してもう1時を過ぎてしまった。
結果、「聴き初め」も自然にベートーヴェンの晩年のソナタ3曲になった、というオチでありました。
でも本当の「聴き初め」は、寝て起きたあとの一曲、ということにしておきますか。