1945年4月1日、沖縄県の読谷村にアメリカ軍が上陸したので、読谷村の住民140人はチビチリガマという鍾乳洞に避難しました。
アメリカ軍が洞窟内の住民に投降を呼びかけましたが、アメリカ軍は鬼畜米英と呼ばれ、野蛮で捕虜になると暴行を受け殺されると信じられていました。そして捕虜になることは恥辱と教え込まれていました。
またチビチリガマのリーダーは軍人で投降を許さず「出て行けば殺される」と言ったためガマから出る者はいなかったそうです。
ですので捕虜になるくらいならと母親が娘を殺したり、毒の注射を打つなどして140人の内、約80名(過半数が子供)が自決を選んでしまうという悲惨な結果になってしまいました。
一方、600m離れた先のシムクガマのリーダーは民間人で、約1000人が避難していて、そこでも同じくアメリカ軍が投降を呼びかけました。
投降を呼びかけるアメリカ軍人に竹槍を持って立ち向かおうとした住民を制止したのは、戦時中に非国民扱いをされていた元ハワイ移民の比嘉平次さんでした。
「アメリカ軍は国際法に従って行動しているのでむやみに人を殺さない」と比嘉さんは叔父の平三と共に住民を説得しました。(他の沖縄戦では、全てのアメリカ軍が必ずしも国際法を遵守せず、投降したからといって住民が助からない場面もあったそうです。)
そして英語を使ってアメリカ軍人と対話し、シムクガマの中には日本兵はおらず民間人しかいないと伝えました。
すると抵抗しないのであれば身の安全を確保すると返答があり、無事投降し約1000人の住民の命が助かりました。
戦時中の極限状態の中、チビチリガマでもシムクガマでも投降派と自決派に別れ激しい討論が行われていたそうです。
もしチビチリガマにも比嘉さんのような人がいたら結果は違っていたのかもしれません。