I-Phone の新機種発売したんだって?周りには、入手した人、予約した人などチラホラいます。


「わかみ~さんは、スマートフォンにしないんですか?」

と聞かれたりもするけど、多分しないと思うな。


どんな使い方してるの?とみんなに聞いても、あまり大したことはしてないような。ネットを見るのに便利とか…それから、色々面白いアプリがあるとか…


まず、移り変わりが激し過ぎるのが嫌だね。今、最新機種でも1,2年後には古くなってしまう。そうじゃなくて、俺は一つのものを長く使いたいんだな。


俺の今の携帯はウィルコムだけど、契約したのは12年前だし、最後の機種変も4年前。特にそれで不都合はない。次々に買い換えて欲しいのは、売る側がもうけたいためだと思う。


携帯に限らず、物があふれてると本当に欲しいものが見えなくなるよ。だからこそ、目先の物欲だけインスタントに満たしたい人が増えてるとも言える。


ところで、ちょうど今日で3.11から8ヶ月。スマートフォンは、消費電力が大きくて、充電が長持ちしないから災害時に不便なんじゃなかったっけ?みんなきれいさっぱり忘れてるみたい。所詮は他人事なのかな。正直、憂鬱だね。


そんな中、この前の文化の日に「神田古本祭り」に行って来た。神田神保町の界隈は、古本屋や大型の書店が軒を連ねてる、歴史ある場所。靖国通りを中心に、店先では古本の青空セールをやっていて、本好きにはたまらない。でも、とても全部は見切れなくて疲れてしまったけどね!


古本の世界は、スマートフォンやパソコン、ネットとは正反対のものだと思う。だって、何十年も前のものが売られたりしてるんだから。そして、変色した紙をめくっていると、前の持ち主はどんな人だったのかなと考えてみたりする。そこに何とも言えない体温を感じたりするんだよな。


デジタル全盛の時代は、伝わる速度が速いけれど、消費されて消え去るのも速いね。ニュースの報道ではそれがメリットになり得るけれど、コミュニケーションの面ではどうなのかなとも思う。


ネット、メール、携帯が普及して、相手の顔を見て話すと言うことがなくなってしまった。五感の伴わない文字だけのやり取りには、色々な危険性が潜んでいるって、みんな薄々感じてはいると思うけどね。


時代の変化が激し過ぎて、乗り遅れまいとする人が多過ぎると思う。でも、新しい流れを何でもかんでも受け入れればいいとは限らない。そんなことを神田神保町で感じた次第。まさに日本のカルチエ・ラタン、古本祭りは実に良かった。

旧暦の1694年10月12日に松尾芭蕉は亡くなりました。
新暦に直すと11月28日なのですが、まあ細かい話はさておいてと。

辞世の句「旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」は実にいいですね。
若く希望に満ちている時には、中々この句の良さは分からないかも知れない。ここ数日風邪をこじらせて寝込んでいた所、ふっとこの句が心に浮かびました。

侘び寂びの境地と言うのは、中々言葉では説明しづらい。誰でも日本人なら小中高で習うのですが、その年代で理解するのは無理でしょう。

太宰の「津軽」の中でもこの事についての記述があります。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」を学校の先生から教えてもらった時は全然分からなかった。大体、先生の説明は「どぶうんと飛び込んで」などと言って体を成していない。芭蕉は、世の中の片隅の取るに足らないちっぽけな存在である蛙の水音を聞いて、身につまされるものがあったのだ、と言うもの。
(原文のリンク)
http://iaozora.net/ReadTxt?filename=tsugaru.txt&card_id=2282&person_id=35&from=230959&guid=ON

若い時は、荒唐無稽な活力がみなぎり、無知であるが故に怖いもの知らずで、自分に限界はないと思うもの。しかし今の自分はどうか?

侘び寂びを西洋人に説明するのも非常に苦労します。
一応、侘び、寂び、細み、しおり、軽みの5つをセットで教える必要があると思うのですが、成功した例を全く聞きません。

昔の知り合いでパットと言うアメリカ人がいて、日本生活が長いこともあり息巻いていたのですが、曰く「侘び寂びってなんだ?ある日本人が君には理解できない、無理だと言ってたけど、俺には分かるぜ」

そして、田舎に旅をした時の経験を語ったのです。
「夏の日周りには自然以外に何もなく、蝉の声だけが聞こえてきた。そして俺は静かな心持になり、これが侘び寂びかなあと思ったんだ。」

「俺のフィロソフィーは何も不可能なことはないってことだ」と誇らしげに付け加えた彼だったけれど、その「何も不可能なことはない」と言う態度には侘び寂びの欠片もないと思った次第。

毛唐に侘び寂びが分かってたまるか。ったく、お前らはスシにケチャップでもかけて食ってりゃあいいんだよ!

俳句や短歌の外国語訳と言うのも大変な苦労なのは言わずもがなでしょうが、「古池や 蛙飛び込む 水の音」の英訳だけでも約100通りあるのだとか。

一番の争点は「蛙」なのですが、これは単数形にすべきなのか複数形にすべきなのかで、意見が分かれると言う話。しかし、これは何と無駄な議論であることか。

日本人であれば誰でも、一匹の蛙が飛び込むことに何の疑問も持たないはず。これは必ずしも学校でそう教えるからではなくて、日本人の無意識に刻まれた侘び寂びが、自然と一匹の蛙の姿を思い浮かばせると思うのですが、いかがなものでしょうね。

ここまで書いて、西洋人(特にアメリカ人)に侘び寂びを分からせる画期的な説明を思い付いた!

「いいか・・・侘び寂びってのはな、アメリカン・ドリームの反対語なんだ。」
まだまだ続く暑い夏。
後もう少しの我慢だろうけど、結構つらい。
脂ぎったリラックマみたいな最近の僕です。

紫外線も年々強くなってるのか、日なたに出ると危険を感じるね。
東京地方の方が、沖縄よりも夏の気温が高いことを今日知った。
東京は35度前後だけど、向こうは30度だってよ。

地球はいったいどうなっとんの?
そう言えば、タイに旅行した人も日本の方が暑いとか言ってたな。
まったくクレイジーな夏だ。

ちょうどこの前終戦記念日だったね。
水木しげるの戦記まんがを買って読んでいます。
他には原爆記念日にも色々考えることがあります。

立秋過ぎの風が吹いています。
ざわざわと音を立てています。
耳を澄ましていると何かを感じませんか。
それは「秋の気配」かも知れないけれど、言葉に表せないような微かなもの。

蝉の鳴き声もどこかもの悲しいし、朝夕は秋の虫が鳴き始めている。
子供たちの夏休みも終わろうとしている。
盆休みに帰って来た先祖たちは何をお喋りしてるのか。

「さとうきび畑」と言う歌を思い出した。
沖縄戦を歌った歌として有名。
ずっと「ざわわざわわ」と繰り返しているだけなのに妙に胸にしみる。
森山良子バージョンが一番知られているけど、他にも色々な人が歌っている。


反戦歌としても、そして風の音を歌った歌としても名曲だと思う。
夏のこの時期の明るい太陽とは何か?
光が明るいと言うことは、陰影の黒さも際立っていると言うこと。
夏の明るさの中吹き始めた風があり、その風の中に潜む何かがある。
立秋過ぎの風は、夏の影の暗さを教えてくれた。

そして、夏の残り火が風に揺らぐのを僕は見た。

戦争が終わった後も終わらない戦いがある。
何度も過ぎて行った夏に合掌。