以前にある絵画の展示に参加した時のこと。

友人が見に来てくれて感想を述べてくれました。

「すっごく上手いね」

とのことでありがたいやら恥ずかしいやら。しかし、次の一言で僕は奈落の底に突き落とされましたとさ。

「しかし何だね、子供の絵ってのはすごいね!」

たまたま隣で児童展がやっていたのですが、オイオイ懸命にデッサンやら何やらに取り組んで精進した僕よりも、子供の方が上だって言うのかい!?ってことで、今日のテーマを語り始めたいと思います。


どのような形のアートでも、専門的に学ぶと技術と理論を一通り叩き込まれるのが定石です。美術なら写実的な絵を描く練習や物の見え方について、あるいは音楽ならメトロノームを使ったスケール練習やリズムの練習と音階やコードの仕組みなどを学び訓練するわけですね。


しかし、このような体系的な学習を重ねるうち、自由な発想や表現力は自然と失われ、型にはまったものしか作れなくなり勝ち。ここで、何のための専門教育なのかと誰もが疑問に思ったりするのですが、すっきりした正解は中々ありません。大抵は、どちらか一方だけが大事であると決め付けて、もう一方をやたらと批判したりしてしまう人が多いみたい。




美術の世界なら、美大芸大を出た人は「デッサン力の伴わない表現はただのラクガキ」と断じてそれを省みることもありません。しかし、中にはあまりに画一的な、受験のためのデッサンに嫌気がさして、そんな練習はしなくても作品は作れますよと主張する方もいます。


難しく言うと、前者はアカデミズム信奉者で後者はナイーブ・アート信奉者です。


言い換えると「玄人受けする絵を描く」のか、それとも「素人であっても理屈では説明出来ない味や魅力のある絵を描く」のか二種類の考えがあるわけです。


本当は、二つともそれなりに大事だよと言うのが理想なのでしょうが、中々そうは行かないですね。専門家は自分たちの努力や積み重ねに意味があると思いたいのか、ナイーブ・アートは認めない。その一方で、好き勝手に描いてる人は専門教育を受けると自分の個性が無くなると思っていたりする。実のところ、これは両方ともただの思い込みに過ぎないと思うのです。



結局、「一通り何でも満遍なくこなすための訓練」と「自分の絵を描く訓練」の二種類があり、前者は人から教わることが出来るけれど、後者は自分で試行錯誤するしかないと言うのが、正解に近いのではないかな? もっとも、言うは易し行うは難しですが…。



画像は自分の描いた人物クロッキーと、チンパンジーの描いた絵画です。正直チンパンジーに勝てる自信がない()







ほうせん花 on Fire-croquis007

ほうせん花 on Fire-chimpanzee






人から好きな映画を聞かれたら何と答えるか。色々ある中から選ぶのは難しい。大きく分ければ、娯楽性の強いものと芸術志向のものがあるが、大して映画好きでない僕でも迷ってしまう。しかし「蜘蛛女のキス」は常に自分のリストに入っている。


アルゼンチンの作家、マニュエル・プイグ原作のこの映画は、多少奇妙な筋書きだ。(以下、核心部分には触れず概略を記す)


……七十年代のアルゼンチンで、当時の軍事政権下で投獄された二人の男性が、退屈しのぎに牢屋の中で色々な話をする。一人は反体制派の活動家、もう一人は同性愛者。「何か面白かった映画の話でもしてくれよ」熱中する内に、二人は強いイメージの世界を共有する。それはある種の自由を獲得したかのようだ。しかし、牢屋の外では、当局による様々な画策が渦巻き、軍の独裁による暗雲が未だ立ち込めていた。二人の運命は?そして国の行く末は?(以上概略終わり)


この物語で好きなところは、まず二人の牢屋での言葉のやり取りだ。閉じた空間で、何とか自分の見た映画をうまく口で伝えようとする彼らは、強く豊かなイメージを形にすることで、退屈しのぎと言う目的を越えて、物理的な拘束から解放されたかのように感じさせてくれる。


そして、アルゼンチンの軍事支配の歴史をあまり知らなくても、充分に楽しめる話である所も大変良い。


アーティストの仕事とは何だろう?まさしく強くイメージしてそれを形にすることだ。そして、イメージすることとは人間の性であると同時に、抑圧や制限から人間を自由にしてくれる。そこにこそ、アートの存在意義があると言える。


どんなに社会が抑圧的でも、人間の頭の中身や、まして心の中まで検閲することは出来ない。そして、それを形にすることで、人の魂はある程度救済されるものだと思う。


冷戦下の東欧でも、社会的な弾圧の中から、様々な優れたアートが生まれた。旧チェコスロヴァキアなどは有名だろう。人形劇などは盛んに行われたし、アートアニメーションの名作も多産である。鋭い風刺に満ちた世界を見ていると、勇気が出て来ると同時に、自分の国の自由さは何だろうかとも考える。

余りに自由が保証されていると、人は切実に何を訴えたいのか見えなくなるものだ。しかし、今の日本にだって、実は様々な抑圧がある。例えば、満員電車に揺られる勤め人の生気のなさは無視出来ない。あるいは、「空気を読め」と言う時、日本人は目に見えない鎖につながれているのである。一見、自分から進んでそうしているように思えるから、ますます始末が悪い。


強いイメージを持つためには、まず自分の心の深い所へと降りて行かねばならない。無意識を探求し、そこで見つけた何かを意識の世界に還元することが大事だ。第二に、外界に広くアンテナを張り、社会や人々の心の中で何が起きているのか敏感に捉えることだろう。それは、図らずも自分自身の心の奥底と深くつながっているはずだから。


チェコのアニメーション作家、ヤン・シュバイクマイエルも好きだ。自分では「私のことはシュールレアリストと呼んで欲しい」と言っているらしい。シュールレアリズムにも、色々な作家が居るが、本当に好きな人はあまりいない。フロイトの精神分析理論にヒントを得たシュールレアリズムの作品は、時として理屈っぽさが先立つことがある気がする。しかし、ヤン・シュバイクマイエルは違う。


無意識の世界をうまく汲み上げて、イメージとして組み合わせた作品は、人間共通の神話の世界を掘り当てたかのようで、見ているとまるで自分の内面を覗き込まれたかのようにドキッとさせられる。


ところで、ここ最近何故かふさぎ込む日々が続き、非生産的な年月を過ごしてしまっていた。言ってみれば「無意識の探求」だが、有益な結論も出るわけじゃなし、実を結んだことも何もない。そう言うわけで、ここにも何も書き留めることが出来なかったのだが、また少しずつ始めて行きたいと思う。


晴耕雨読。雨の日でも目に見えない何かを掘り起こして行こう。今はそれで充分かも知れないから。

自分らしさって何?と知人が悩んでいたので、一言返した。「自分らしさって中々自分では分からないものじゃない?」

それでもこの事を考えてしまう人は多いみたい。例えば仕事が忙しすぎて、ゆっくり物を考える時間がない時などにそんな疑問を持ってしまう人がいる。

誰もが社会的な役割と素の自分に多少の食い違いがある。「自分探し」は現代のキーワードの一つだ。

でも意識して探したからって見つかるものでもないだろうね。色々と試行錯誤している内に自然に見つかるのが一番いい。まあ実際そんなにうまく行かないけど。

ここで「自分らしさ」についていくつかの私的覚え書き。

1,まずは自然体が大事。
しかし、集団の中にいると知らないうちに無理をしてしまったり自分を飾ってしまったりするのが人間の習性でもあるね。

2,自分らしさに安住しない。
あるドラマーが「君らしい演奏だね、と言われたらそれは失敗」と言ってたけど、これは人の期待をいい意味で裏切ろうしないと進歩はないと言うこと。

3,自分の欠点=自分らしさだと断言しない。
欠点も個性になり得る時がある。けれどそうなるためにはそれなりの努力が必要。人から欠点を指摘されて「これが自分の持ち味」と決めつけてしまうのは成長の妨げになる。

ところで、絵を描いてると「自分らしい絵を描きましょう」と言う先生方がいるけどこれは困りもの。内面を深く掘り下げなければ自分のことは分からないけどこれは簡単なことではない。ましてや他人にとやかく言われてやるものでもない。俺のことをよく知らない人が思い込みで押し付けて来る「自分らしさ」なんて煩わしいだけ。

最後に一つ。頭から「自分らしさ」を決めつけずに色々なやり方を試すこと。そうする中で、変えようとしても変わらなかったものがあったとしたら、多分それこそが本当の自分らしさ。
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