今月22日はアンディ・ウォーホルの命日です。没後39年になります。
「近い将来は誰でも15分だけ有名になれる」これが生前の彼の言葉です。
インターネットが普及しSNSや動画の投稿サイトなどによって誰でも気軽にコンテンツを作成し発信出来るようになった現代を予見していたかのようですね。

しかしウォーホルにもデジタル時代がどのような問題をはらむかまでは正確には見通せませんでした。

例えば迷惑系YouTuberのような存在が出て来ることはおろか、どのような法的枠組みを作って取り締まるべきなのかについても到底予測することは不可能でした。現在も議論が終わらないですが、時代の変化が速過ぎてルール化が追いつかないのです。

また、現在衆院選を控えネット上でのデマゴーグや偽情報拡散に政治家も選挙管理委員会も頭を痛めています。匿名性の高い掲示板はもちろん、本人確認の比較的容易なSNSでもそのような行為が横行するのは、そもそもインターネットと言う媒体が検閲や上からの管理と言う発想で作られていないからとも言えます。

「情報の自由化」が正にインターネットの特徴である以上、完全にコントロールするのは難しいかも知れません。

各発信者が投稿するコンテンツも大した価値のない日常の垂れ流しであっても炎上的な手法でフォロワー数を稼げれば良いと言う側面があるのも否定出来ません。
 

「誰でも有名人になれる」確かにその通りですが「15分だけ」と言うのは間違っていた。ウォーホルのような先駆者でもそこまでは見通せないほど時代の変化は超速で進んでしまったのです。
 
ここアメーバブログでもオフィシャルブロガーであるにも関わらず、無責任な情報を流し嘘を付いても平気な者も混じっています。
 
文明社会の進歩が飽和状態に達した今、一見繁栄しているように見えても足元から腐り崩れかけていると考えるのは私だけでしょうか。

2009~2012年ぐらいに描いたもの。3分~5分ぐらいのポーズ。筆ペン又はサインペンを使用。

 

 

 

 

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森田童子さん死去、65歳=シンガー・ソングライター
 森田 童子さん(もりた・どうじ、本名非公表=シンガー・ソングライター)日本音楽著作権協会(JAS..........≪続きを読む≫

彼女の歌を初めて知ったのは14年前。後追いなので作品が誕生した時から既に大分時代が進んでいる。それにも関わらず、引き込まれたのは何故だったのか?

森田童子の活動していたのは75年から83年までなので、いわゆる学生運動が下火になった後の頃。その数十年後に彼女の歌を僕が聴いた頃は、学生運動どころか反抗期とか不良と言う言葉さえ、あまり耳にしなくなっていた。何がどう変わったのかは今一つ分からない。

栗本薫(この方も故人)の小説では、所々「赤いダウンパーカー 僕の友達」や「みんな夢でありました」の歌詞が部分的に引用されているので、僕は歌を聴く前からその言葉を目にしていた。いくつかの挿話の中で、ちゃんとした大人になり切れないままの、正業につけずフラフラしている人たちが多数登場する。

栗本氏によると70年代から80年代に時計の針がまたぐ時、ガラッと世の中の様子が変わったらしい。80年代はバブル時代の先行期~爛熟期であり、「軽薄短小」と言う価値観が広く人口に膾炙した。つまり、70年代は真剣に物事や社会問題を考えたのに挫折してしまったので、もうそう言う面倒なものをあきらめて、楽しくやって行こうと方向を転換したのである。

80年代は何か偽物だと言う感が拭い去れない。

ネアカ、ネクラと言う区分けが流行り、コピーライターやハウスマヌカンなどが花形職種となり、TV、マスコミ関係への就職熱が異常に高まった。そんな中で、若者たちは「若者らしさ」を失っていった。

青春とは、まずエネルギーが有り余っているのに、何にどのように使ったらいいか、まだ分からない時期、状態。そして、しばしばそれを無意味なことに費やしたり、暴走したりしてしまうものだと考えられる。

その根底にあるのは、不満や怒りだろう。社会や大人に対して満たされぬ何かをぶつけているようでもあり、しかしまた未だ何者でもない自分自身に対して苛立っているのだと私は考える。

反対に80年代は、羊のように従順だけれど、ある意味狡猾でもある若者に対して、上の世代の者たちは、すり寄ったり媚びたりするようになった。そうした若い世代を相手にして、世の中の大人たちがうまく商売をする味をしめたからである。そして、そんな大人たちを見て、若者は年長者をナメてかかるようになった。

栗本氏の小説の受け売りだが、私もこの事には大変腑が落ちるのである。21世紀の今、「ゆとり世代」や「さとり世代」が、空気を読んで嫌われないようにし、冒険や挑戦を好まなくなり、人の悩みを「中二病」として小バカにするのに通ずる現象ではないか。

森田童子やその同時代の音楽を聴いていて、私が感じていることはノスタルジーかも知れないが、やはり何か胸が締めつけらる気がしてしまう。それは、今の時代が決定的に失ってしまったものが、そこに凝縮されていると感じるからなのだろう。

彼女の歌は、ドラマ「高校教師」で使われて何度かリバイバルしたが、人生には若い頃に直面した問題がまるで亡霊のように蘇り、立ちはだかることがあるように、本当に人間の深い部分に触れた作品は、時代を越えて復活するのかも知れない。

命日が尾崎豊と一日違い、そして今年はパリ五月革命50周年。戦後の若者(自分から見ると年上だが)の言動には賛否両論あるはずだが、いつも興味を引かれるものがある。敢えて言うなら、若さとはたくさん間違うことだ。また機会があれば、何か書きたいと思う。(mixi日記より転載)