先月号の文藝春秋に日比野弘氏を悼む小文がありました。
初めて、亡くなったことが事実として胸に降りてきました。
本人の前以外では、私たちは愛と尊敬を込めて「日比じい」と呼んでいました。
女子チームの監督として、練習のみならず様々にサポートをしていただきました。
私ともう一人で日比じいの男子の授業のアシスタントを仰せつかり、電車で遥々別キャンパスのグラウンドへ行くときには毎回車で最寄り駅まで送迎してくださり、他愛ないお喋りを沢山しました。
可愛らしい奥様の手料理を頂きに、何度も大勢でご自宅に押し掛けたし、息子さんの弾くギターも聴いた。
当時まだ珍しかった女子チームが、エキシビションとしてシニアチームと試合をすることになった時には、「神聖なグラウンドが穢れる」とお怒りの電話が何百本もあったそうです。
(確かに一部の人には、そして私たちにとっても聖地でした。)
それら全てを日比じいが処理してくださり、私たちには何一つ耳に入らなかった。
あの場所が聖地であることは、日比じいこそが一番良く知っているのに。
当日のゲームをニコニコと楽しみ、終わった後は宴会に連れていってくださいました。
伝統の早明戦の日には、関係者たちを置き去りにして、記者でもなく私たちとあーでもないこーでもないと戦況を占うために秩父宮ゲートの脇にある小さな喫茶店でお喋りに興じていたことを昨日のことのように思い出されます。
今でこそ男女平等という言葉すら時代遅れになり、性差の存在は表面上は消えていますが、あの当時あの種目には特に厳しい壁がありました。
当人たちは何の気負いもなく、のほほんと楽しく興じていたのですが、日比じいが様々な場面で壁になり私たちを優しく見守ってくださったのだと今はわかります。
ようやく亡くなったことが実感となり、あんなことこんなことが浮かんできます。
ありがとうございました、日比じい。
どうか安らかに。