雨に湿った臭いに満ちたビルの中をさまよい、
入口に戻ったとき、
守衛さんはまだそこにいた。
同じく湿った臭いのたばこをくゆらせながら、
気の毒そうに私を見た。
謝謝。
となんとか発すると、
「辛苦了。」
と私の背中に声をかけた。
お疲れさま、とも厄介だったね、とも大変だね、とも相応しい訳がみつからない。
私は長く待たせていたタクシーに戻った。
違ったみたい。
いなかった、と運転手に告げた。
待たせた分の支払いをして、雨の中を歩いた。
近隣に聞き込みをするも空振りで、
私は、霧のように降り続ける雨で全身を濡らしていた。
寒くて震えながら。
無数の橋と運河で縫われた刺繍のような町だった。
いくつもの小さな橋を渡り、
いくつもの手こぎ船を眺め、
野菜を洗った水を運河に捨てる脇をすり抜け、
紹興酒と臭豆腐と汚水の匂いが満ちた路地に迷い、
ひどくがっかりしながらホテルに着いた。
ホテルで名刺に書かれた電話番号にかけるも、
応答はなく、
電話帳で探すも、
会社も彼の名もなかった。
忽然と姿を消した私の恩人たち。
いやそもそもこの紹興の町にいたのかも確認できないのだから、姿を消したというのでもないのかもしれない。
私が彼らから受けた親切自体が夢のような気がしてきた。
魯迅ゆかりの地も訪ねず、
名物料理も口にせず、
翌朝私は紹興の町を離れた。
後日、再び手紙を送った。
あの日訪ねていったこと、会えなかったこと、
口にしていない臭豆腐は美味しかった、と書いた。
返事は来なかった。