イスラエルの近代史---無人の荒野にユーカリで湿地の水を確保し,土地を開拓 | 下手の横好きの独白録

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毒説の日々。日本の村社会への批判,反日プロパガンダへの批判,反原子力への批判。

[日本人の過てる思い込み]
日本人は,昔はパレスチナという国があってそこに一方的にイスラエルが戦争を仕掛けて国を作ったと思い込んでいる。高校の歴史教科書にあるような,サラセン帝国やオスマントルコ帝国などのイスラム圏の勢力図をもとにして,”ユダヤ人がイスラム圏を侵略して,ユダヤ人国家のイスラエルを立てた”みたいなことをいう人が多い。しかしながら,これらの地域にも多数のユダヤ人(中東や北アフリカ系の系統スファルディ)が生活していたことを無視

 

オスマン帝国領時代,今のパレスティナと呼ばれる地域は,いわゆる no man's land 。ほとんど人のいない過疎の地域。これは,マムルーク朝の時代に,海岸地帯が略奪され,破壊されたことが主因とされています。この地域にユダヤ人たちが,無人の荒野にユーカリを植えて,湿地の水を確保し,土地を開拓して来たという歴史的背景を完全に無視しています。以下は,私が調べた概要です。

[近代的入植以前]
ユダヤ人たちの近代的入植の始まりは1878年とされています。しかしながら,ユダヤ人の移民(復帰?)は。それ以前からありました。16世紀のスレイマン2世のときに,ティベリア(ガリラヤ湖畔の町)移民したのが嚆矢とされています。さらに,ツェファット(ガリラヤの北側の町)に移住した方々もいました。このような方々は,”ハルカ”と呼ばれていました。余談ながら,イスラエルの第5代大統領のナボン氏も,この”ハルカ”の子孫とのことです。

[オスマン帝国時代での近代的入植]
近代的入植の始まりは,日本の明治初期(明治維新:1869)に当たる1878年とされています。このころまでは,あまり民族間の対立はなかったとされています。このときに入植してきたユダヤ人たちは,無人の荒野にユーカリを植えて,湿地の水を確保し,土地を開拓してきました。


実質的なイスラエルの首都であるテルアビブの建設は,日本の明治後期の1906年。それまでのテルアビブは,単なる砂地。また,ギブツ・デカニアができたのが1911年。このころになると,いわゆるシオニストの入植が始まり,民族間の対立が始まったとされています。

[英の2枚舌外交と統治委任]
 このあと,1914年に第1次世界大戦がはじまり,英の2枚舌外交により,パレスティな問題が複雑化します。英のバルフォア外相は,パレスティナにユダヤ人が「ホームランド」を建設することを支持する旨の宣言をしました(バルフォア書簡)。それと同時に,英のエジプト駐在の高等弁務官マクマフォンは,トルコが支配していたパレスティナをアラブの管理下におくことを約束しました(マクマホン宣言)。英は,両方の機嫌を取る必要があったので,この2枚舌は,第1次世界大戦が終わるまで続きました。
 

第1次世界大戦後は,パレスティナは,英の統治委任領となります。英は得意の分割統治策を活用し,統治委任領となったパレスティナにおいて,バルフォア書簡とマクマホン宣言の2枚舌をそのままやって,今の複雑なパレスティナ問題を作り出しました。英の統治委任領となったパレスティナには,ユダヤ移民が急増。そこで,英は,アラブ人にいい顔をするために,しばしばユダヤ人の移民を制限する。その一方でアラブ人の移住も進める。1930年代にパレスチナのユダヤ人の人口が急増したのに合わせて,アラブ人もパレスチナに流入して人口が急増。

[民族対立の先鋭化]
パレスティナにおいて,民族対立が先鋭化したのは1930年代だといわれています。これは,アラブ人がコーランに忠実な原則主義であったことと,ユダヤ人シオニストたちがあまりにもイデオロギ的原則主義者であったためとといわれています。シオニストに言及すると,収拾がつかなくなるので,ここでは,この程度にとどめておきます。

なお,この対立に決定的な役割をはたしたのがナチスと言われています。エルサレムに,ヒトラに影響された ハーッジ・アミーン・アル・フサイニ(アラブ大法官)という人物がいて,彼がパレスティナにおける反ユダヤ運動の先頭を切ったとされています。 エルサレムのユダヤ人地区でヨーロッパでやっていたようなユダヤ人迫害やユダヤ人殺害を行っていました。

 

彼は,後にドイツに亡命し,ヒトラの側近となって,終戦時には,ベルリンにいました。ご都合主義の国際政治の力学により,対アラブ調整のため,アル・フサイニは,戦後,無罪放免となっています。


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以上が,現在のイスラエルvsアラブの対立の大まかな構図です。歴史をまじめに調べると,「昔はパレスチナという国があってそこに一方的にイスラエルが戦争を仕掛けて国を作った」とは言えないことが自明です。