ドイツ軍参謀の観点からの第二次世界大戦論(38)----対ソ戦は2正面戦にあらず | 下手の横好きの独白録

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7.5  バルバロッサは,健全なりしや-----対ソ戦は2正面戦にあらず
(訳者序)
ヒトラが,スターリンから背後を突かれることを,常に恐れていたことに注目してほしい。

<日本語訳>
ヒトラは,最初に英国とカタをつけるべきであったという主張は,(米国のルーズベルト政権の武器供与法に基づく布告なき戦争によりる),机上の空論である。

ヒトラは,国家が欲する土地や資源を確保するという決断においては,見出だしたときの如何にかかわらず,シーザのようであった。彼は,新たな和平秩序について広大なビジョンを描いてるということに関しては,アレクサンダのようであった。しかし,戦略においては,ナポレオンのようであった。その理由は,ナポレオンと同様に,彼の中心的な問題は,彼が敵に取り囲まれていたことである。ナポレオン的な問題解決策は,,敵を一気に倒すために,スピード,エネルギ,奇襲,攻撃点への戦力の極端な集中を行う(内戦作戦で)であった。彼は,これを実行した。大戦略についていくらか冒険的な感覚を持っていたこと,戦術的な作戦に軽薄な干渉を行うこと,および,軍人的な克己心がなかったことが破滅的であったとしても,彼は,常に輝いていた。

1940年5月に,彼は,フランスを終わらせ,武器を捨てた英軍の残党を大陸から駆逐する間,200個師団以上の赤軍師団に直面する東方には,僅か24個師団を割り当てたのみであった。それは,とてつもない賭けでなく,先見の明のある賭けであった。スターリンは,ベルリンを取れたにもかからわす,ドイツにフランスを破壊するにまかせたことは,非常な幸運であった。その間,彼は,バルト海諸国やバルカン半島の土地をつかんだ。

1941年には,ソビエト連邦は,はるかに強力となった。プロエスティ油田から100マイル以内に移動した。バルト海の制海権を得た。ドイツおよび征服したポーランド領と直面する国境,300万人以上を集結させた。そして,ダーダネルス海峡,ブルガリア,フィランドでのフリーハンドを要求していた。これらの要求は,1940年11月にモロトフ外相によってもたらされたが,我慢の限界であった。

ヒトラは,自分には実際3つの選択肢しかないと思っていた。彼は,①ドイツ国民に降伏の交渉する課題を残し,ピストル自決する,②東方からの裏切り的攻撃に対して,背面をがら空きにしたまま,英仏海峡を渡るという修羅場を甘受しながらも,英国を服従させるという決定打が難しい課題に取り組む,③無力でひれ伏した英国を無視して,戦力が最強の時期に,完膚無き一撃を行い歴史的目的を全うすることを試みるか,のいずれかであった。バルバロッサは,その解決策であった。(英国が弱体化しているうちに,背後の真の敵だるソ連を叩くという)ナポレオン的な突進による単一正面作戦であり,真の2正面作戦を開いたのではなかった。

偏見をもたない軍事史の専門家は,ヒトラが東に方向転換したことを責めることを決してできない。最初から,彼は,オッズが低い賭けを行っていたのだ。彼は,リスクを十分に計算に入れていたが,作戦上の過失と不運とが積み重なりに加えて,当時,同じ気迫のある無慈悲で蜘蛛のごとき天才--フランクリン・ルーズベルト--に敵対した歴史上の不幸な出来事のために,賭けに負けたのであった。

[訳者によるコメント]-----個人的見解

ドイツ軍の参謀は,ヒトラが条約破りの常習犯であるソ蓮から背後を突かれることを,常に恐れていたとしている。日本の形勢が不利と見るや,日ソ不可侵条約を紙屑のように破り,満州,千島,樺太に侵入され,邦人が惨憺たる目にあった日本人からすれば,極めて当然のことのように思える。

1941年にソビエト連邦の戦力が強力になり,スターリンが強行に出てきた理由として,訳者は,1941年ごろに,ソ連は,装甲車両の損耗が37%に達したノモンハン事件による損害およびフィンランド戦による損害を大部分回復したものと判断している。特に,ソ連への侵攻が1年遅れたならば,その時点では,ソ連の主力戦車が新型のT34に更新されており,ドイツ軍の3号戦車,4号戦車では,全く歯が立たなかったものと推測している。

さらに,ドイツ軍の参謀は,ヒトラがソ連軍の実力を過小評価していたことに言及していないことに注意しなければならない。フィンランド線におけるソ連軍の戦績は,惨憺たるものであった。たとえば,クリスマス期のソウムサルミでの戦闘では,ソ連軍の戦死者3万人に対し,フィンランド軍の死者は900人程度に止まった。ヒトラは,精強なドイツ軍をもってすれば,容易にソ連軍を撃滅することができると考えたのであろう。この視点が抜けている。訳者は,これもヒトラを東進させた理由のひとつであると考えている。