(1)はじめに
近年、日本国内で核保有論あるいは核共有論が、かつてないほど公然と語られるようになっている。
日本が国是としてきた“非核三原則”が揺らいでいるのだ。
北朝鮮の核・ミサイル開発や中国の軍備拡張を背景に、「核の傘だけでは心許ない」という不安が根底にあることは理解できる。
もちろん、外交や対話だけで国の安全は守れない。
軍事的な抑止力も対話の努力もどちらも不可欠であり、問題はそのバランスである。
(2)核保有論・核共有論の具体例
◎安倍晋三 元首相:「(核共有の)議論をタブー視してはならない」
◎石破茂 元首相:「核の傘で守ってもらうと言いながら、日本国内に(核を)置きませんというのは抑止力として十分なのか」
◎高市早苗 首相:「(“持ち込ませず”について)将来にわたって縛ることではない」、「議論を封じ込めるべきではない」
さらに注目すべきは韓国の事例である。
韓国では独自核武装に賛成する世論が7割前後に達し、政治の場でもくすぶり続けている。
「隣国がやるなら自国も」という連鎖的な議論が起きやすい土壌が、東アジアには確かに存在する。
(3)反対理由
①核抑止は必ずしも“安全の保障”にはならない
核保有論の前提は「核を持てば攻められない」という抑止論である。
しかし歴史を振り返れば、核が戦争を防いできたという実証が意外に薄い。
核保有国同士のインドとパキスタンは1999年の“カーギル紛争”で実戦に至った。
また、事実上の核保有国であるイスラエルは、2023年10月にハマスの大規模攻撃を受けている。
核は“通常戦力の衝突”を止める力すら持たないのである。
さらに本質的なのは、核抑止が“相手の合理的判断”に全面的に依存している点である。
指導者の誤算、誤報、通信の途絶があれば、抑止は一瞬で崩れる。
1962年の“キューバ危機”では、ソ連潜水艦の艦長一人の判断が違えば核戦争が始まっていたとされる。
核保有国が増えれば増えるほど、こうした事故や誤算の確率は単純に上がる。
日本が核を持てば、得られる抑止力よりも先に、危機の際に核攻撃の標的リストの上位に載るリスクが現実のものとなる。
②核共有は日本の主体性を奪う
核共有は一見「持たないけれど守られる」という折衷案に見える。
しかし、NATO型の核共有では核兵器の使用決定権はアメリカ大統領にあり、配備国は運用の一部を担うに過ぎない。
つまり日本は、自国領土を核基地として提供しながら、使うか否かの決定には関与できない。
敵国から見れば“核配備国”であり、攻撃対象のリスクだけを背負い込む。
“非核三原則”を実質的に空洞化しながら、得られるものは“曖昧な安心感”だけというのでは割に合わない。
③核拡散の連鎖とNPT体制の崩壊
日本が核保有や核共有に動けば、韓国の核武装論に決定的な正当性を与え、東アジア全体で核拡散の連鎖が始まる。
核不拡散条約(NPT)体制は不完全ながらも、核兵器の広がりを食い止めてきた唯一の国際的枠組みである。
NPT加盟国として非核国の立場をとってきた日本がその枠組みを揺るがせば、経済制裁や国際的孤立などの代償を免れない。
原発大国としてIAEAの保障措置を受け入れてきた信頼も失われる。
④核は“抑止と対話のバランス”と根本から壊す
ここが私が最も強調したい点である。
安全保障は本来、軍事的抑止と外交・対話の両輪で成り立つ。
日本が近年、反撃能力の保有や防衛力の整備を進めているが、私はその方向自体は否定しない。
問題は、核がこのバランス構造そのものを破壊する点にある。
第1に、核は外交の土台を削る。
日本が核保有や核配備に動いた瞬間、周辺国との間で軍備管理や対話の交渉は事実上凍結される。
北朝鮮との危機管理の糸口も、米中の核軍縮を促す仲介の余地も、非核国の立場があるからこそ可能なものだ。
核は“対話の切り札”になるどころか、対話の席そのものを消してしまう。
第2に、核は対話なしでは制御できない兵器である。
誤算や事故のリスクを下げるには、ホットラインの整備や事前通告の仕組みなど、むしろ高度な外交努力が必須となる。
つまり、核保有は外交を不要にするのではなく、危機を高めた上でさらに難しい外交を強いる。
抑止と対話のバランスに重しを乗せるどころか、対話という柱そのものを折ってしまいかねない選択なのである。
(4)おわりに
「核保有・核共有を議論することすらタブーか?」という問いかけは一見もっともらしい。
しかし、議論の結果として導き出される結論が、抑止の幻想と外交の喪失を同時に引き受けるものならば、その議論の方向性には断固として反対である。
日本が目指すべきは、防衛力の整備と対話の努力の両方を保ち続ける、粘り強く制御可能な安全保障である。
被爆国として80年かけて築いた非核の立場の堅持こそが、その両輪を回すための土台なのである。