子どもが小さい時から、
やった、やらなかった、で問い(時には問い詰め)、
善悪を判断して、
叱ったり、謝らせたりしてきた。
たぶん、自分が子どもの頃も同じだと思う。
自分が物心つく前から、
白(善)か黒(悪)かで。
幼い程、あまり複雑な事は考えられない、
という事はないと思うけど、
とにかく、シンプルな理論が理解しやすいことは確かかもしれない。
だから、
誰かのものを取ったら(奪ったら)ダメとか、
誰かを傷つけたらダメとか、
(そうなんだけど)
そういう理論で話す。(正しいけど)
その場だけで判断して。
子どもは一方的に納得させられる。
それが社会を知る事です。
が、
それで終わってほしくない、という気持ちもあります。
家庭では、
内輪では、
もう一段、深い理解があってもいい。
例えば、オトモダチの前ではバシッと叱った。
で、後で子どもと2人になった時には、
自他の気持ちの理解、受容、
前後関係、
善悪とその間の判断、
他視点での見解、
さっきのはなんでああなったの?
あーそれは分からなくはない。
あっちも、あれは酷かった。
まあでもあのやり方はダメだわぁ
それならこういうふうにもできたんじゃない?
とか、そういう会話があってもいいかもしれない。
親はどう思っていたのか、
そこまで聞かせてほしかった。
もっというと私の味方になってほしかった。
善悪置いといて、一度はそのタイミングくれても良かったんじゃないですか?
と、私の中の子どもの私が言ってる。
白も黒もあるけど、
白が善、黒が悪ってこともないかもしれないし、
結構グレーも多いよね、とか、
白っぽいけど、ヒトはそれは実は好きじゃないことがある、
でも白っぽくみんなまとめてる、とか、
白と黒が交互になってる、とか、
色々あるじゃないですか。
事実と、理想と、建前と、現実と、
過程と、途上と、
好き嫌いの感覚とか、社会的な評価と身内と、
どこまでを出して、出さなくて、
とか。
そういう、気持ちの置き処の範囲を広げると、
いいんじゃないかなぁ
子どもの時から言われ続けて、ついには教え諭すまでに成長している私たち。
自分の気持ちがそういう縛りを受けていないはずがないと思いませんか?
自分を縛る観念から解放されて
もう少し他人に・自分に・家族に
優しくなれる…かもしれないワークへ
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