あと、もうひとつ。
私も覚えたいなと思っている言葉がある。
それは、手話。
聖教新聞のCM、見たことありますか?
今も流れているかな。
図書館のお姉さんと、女の子がお手紙でやり取りするCM。
知らない方はYouTubeで検索して見ていただきたいな。
あのCMを見る度に、伝える方法は口から発する言葉だけじゃないんだなと気付かされる。
指先で文字を読み取る点字もある。
舌で点字を読み取る方法もある。
目が見えない生活が当たり前の人もいる。
耳が聞こえないことが当たり前の人もいる。
言葉が喋られない人もいる。
車椅子の生活が日常の人もいる。
体が動かない人もいる。
色々な人がいる。
もう私は、目が見えて、耳が聞こえて、言葉を喋ることが出来る自分が「普通」だと思わない。
目がふたつ、
鼻がひとつ、
口がひとつ、
耳がふたつ、
指が10本ずつ、
腕と脚は2本ずつ、
それも「普通」だと思わない。
私はそうだっただけ。
まめとお絵描きをしながら、クレヨンの「肌色」と言いかけて自分で違うと思う。
これは、肌色じゃない。
肌の色はこれだけじゃない。
「五体満足に生まれただけでも幸せだと思わなきゃ」という発言に、その発言自体がおかしいと思う。
そうじゃない人が幸せじゃないと何で決めつけるの?
そもそも、「五体満足」ってどういう基準だよ。
おかしい。
おかしい。
決めつけないで。
世の中が言う「当たり前」とか「普通」なんておかしい。
もっと、色んな人がいるのに。
最近のテレビ番組はテロップで言葉を追うし、ドラマだってニュースだって、字幕が出る。
じゃあ、耳が聞こえなくて目も見えない人の娯楽は何があるんだろう?
指で点字を触って本が読める。
指も無い人はどうするの?
舌で点字を読む「舌読」という方法があることを知る。
それぞれの人生がもっと充実出来るような世の中になってほしい。
まず、不安にならないですむ世の中であってほしい。
色んな人がいることが「当たり前」な世の中にしてほしい。
私の願望ばかりを書いてしまったけれど、私が色々と思ったきっかけのひとつの出来事があった。
お買い物に出掛けた時、私の目の前に小学生の男の子ふたりが歩いていた。
ふたりは横に並び、進行方向を見ないでお互いを見ながらオーバーリアクションで何かを話している。
「ねぇねぇ、前見て歩かなきゃ危ないよ!」
私がそう言おうとしたとき…
ふたりの会話が手話だと気付いた。
私が驚いた理由。
それは、ふたりはこれ以上ない笑顔で、一生懸命、力一杯の身振り手振りで、お互いで会話をしていたから。
小学生の子供が、息継ぎを忘れたかのように聞いて欲しいことを喋るあの感じ、解りますか?
まさにそれが手話で行われていた。
私は、彼らのキラキラした笑顔と全身で会話をする姿に心を奪われてしまった。
そして、初めて思った。
手話が解らない人が多いから、世の中を不便にさせているんだなって。
文字の読み書きと同じくらい、誰もが手話を使えれば、彼らはもっと特別じゃなくなるのに。
私の地元の支援センターは、絵本の読み聞かせやお歌と同じように手話を子供たちに教えています。
鳥取県手話条例というものがあるから。
私は、この条例を全国で先駆けて制定した鳥取県を素晴らしいと思うし、幼稚園や保育園に通う前の幼児が多く集まる支援センターという場所でもそのプログラムを行っているということが凄いと思う。
まめはその手話の時間が大好きで毎回一生懸命先生と一緒に手話をやっているんだけど、日常の会話の中で突然手話を使って話したりして私を驚かす。
例えば「ママ、一緒に遊ぼ!」って言いながら「一緒に」っていう手話をしたりね。
今のまめくらいの年齢の子供はいろんなことの吸収力がハンパない。ましてや手話は言語なのだから、小さなうちからふれておくことは今後のまめにとって絶対にプラスになるに違いない。
まめの友達がもっと増えるに違いない。
私もまめと一緒に手話を覚えてるよ。
まだまだ支援センターで教えてもらったことしか出来ないけど、気になる言葉があるとネットで検索するようになった。
今日は十二支が出来るようになったよ♪
ダンスの経験がある人は覚え安いかも。
これは私の感覚なんだけど、振り付けを覚えるのと似ているような…。

まめと一緒に、もっといろんな世界と繋がれるといいな。
壁なんてないと教えてあげたい母なのでした。
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