3月11日に書き始めたのに書き終わらない。
どうやって言葉にしたらいいか考えれば考えるだけ時間がかかるから、今の私が思っていることをそのまま書きます。
あれから3年。
あの日のあの時、私は家のリビングでメールを打っていた。
カタカタと揺れがきたので、メールの文面に「地震ですね」なんて打っていると、ぐらんぐらんと大きな揺れがきて家具が倒れてきた。
「あいちゅ!!」と叫んで、とんできた愛犬を抱き玄関のドアを開けて非常階段から下を見て、大縄跳びの縄のように揺れている電線にただ事じゃないと思った。
あぁ、こうやって地球って終わっていくのか…って、本気で思った。
シューズボックスから靴が全部飛び出した玄関、食器棚から食器が落ちて割れているキッチン、天井までの高さの細長いCDラックが倒れて散らばっているリビング、本棚が崩れテレビも落下して液晶が割れてしまっている寝室、家の中はぐちゃぐちゃだったけど、約束があったから仕事に行かなくてはと準備をし始めた私。
勿論、その時は日本中の事態を知らずにいたから。
ぼーぜんとするって、こういうことなのかな。
テレビで見ているあの光景が何なのかピンとこなかった。
大きな地震が来て、大きな津波が来てるんだ。
それは、言葉で聞いて、映像を見て、理解はした。
でも、あの時ほどテレビのあちら側とこちら側を実感したことはない。
今私がいる家の中はぐちゃぐちゃだけど、テレビが見られている。
電気も通っていて、私は無事だ。
でも、日本のすぐそこでは、こんなことが起きている。
今。
まさに、今。
私は、たまたま住んでいた場所が東京だったから今こうやって生きていられるだけなのかもしれない。
そう思うようになってから、3年。
ひとり暮らしていたあの部屋に、今はまめと住んでいる。
妊娠中、家を子供に安全な環境にしなくちゃと思って模様替えをするとき、一番考えたのは地震が来ても危険がない家。
東京に大地震は来るものだと思っているので、とにかくそれに備えなければ。
身近な人の死というものは、必ず私に人生の教訓を教えてくれる。
あの時もっとああしておけば…、もっとこうしておけば…。
亡くなった命に対して、誰もが思うこと。
身近な人ではなくても、3年前に本当に大勢の命が亡くなって、どういう状況で亡くなられたのかその事実を知らされている環境にいながら、そこで学ばないなんて亡くなった命に失礼だとも思う。
だから、私は備える。
自分の為ではなく、まめという絶対に守るべき命を生んだ今だからこそ。
3年前の教訓を生かしてしっかり備えて自分の命を粗末にしないことこそが、あの日亡くなられた命に対して手を合わせることだと思うから。
だから、絶対に忘れない。
3年前の3月11日のこと。
Android携帯からの投稿