ブルートレイン「出雲」乗車の思い出 | あさかぜ1号 博多行

ブルートレイン「出雲」乗車の思い出

自民党総裁選で石破茂氏が新総裁に選ばれましたね。
現状では自民党総裁となればおそらくは次期首相にも就任することになるわけで、「次に首相になるとすれば誰?」というような世論調査では頻繁に1位にランクインしながら5度目の正直でやっと総理になるであろう石破氏にとっては、ついに悲願達成ということになるんでしょうか。
果たして「石破首相」がどんな政治をするのかわかりませんが、せめて先任の3人の首相の時よりはよい、というかましな政治をしてほしいものです。
ところで石破氏といえば、軍事やキャンディーズとともに大の鉄道ファンとして有名ですが、中でも地元鳥取を経由して東京都山陰を結んでいたブルートレイン「出雲」への愛着は半端ではないようで…
なんでも過去1000回は乗ったというヘビーユーザーだそうで、SNSの動画でもその「出雲」愛を熱く語っていたとか(残念ながら私はまだ見てませんが)
石破氏は「出雲」廃止後も地元への里帰りには「サンライズ出雲」をよく利用しているようですが、最近は人気がありすぎてなかなか切符が取れないとぼやいているとか。
今後首相になっても里帰りの「サンライズ」利用は続くんでしょうか。
さすがにタイトな公務のスケジュールの中ではなかなかそれも思うに任せないことになるんでしょうけど。

その「出雲」は1950年に急行列車として運転を開始し、1972年には東京ー浜田間を結ぶ寝台特急となりました。
その後1978年に出雲市止まりの1往復が加わって2往復体制となりこれが長く続きますが、1998年には出雲市止まりの「出雲3・2号」が電車化されて「サンライズ出雲」となりました。
この時、浜田行きの「出雲1・4号」は「サンライズ出雲」が経由しない福知山・鳥取・倉吉などへの利用客の利便を図るためにブルートレインのまま残され、運転区間を出雲市までに短縮し列車名を号数表示のない「出雲」に変更して2006年3月のダイヤ改正で廃止されるまで走り続けました。

そんなブルートレイン「出雲」に私は一度だけですが乗車した経験があります。
2003年9月中旬、少し遅めにとった会社の夏休みを利用して岡山・広島方面へ乗り鉄旅に出かけました。
住んでいる関東からはまずは岡山へ向かうことにしました。
関東から岡山へ向かうなら、東京駅からまっすぐ新幹線あるいは「サンライズ瀬戸・出雲」、または東海道・山陽本線の快速・普通列車乗り継ぎで向かうルートがまず思い浮かびますが、それでは新鮮味がないので、それまで乗ったことのない山陰本線と伯備線を経由して岡山駅へ向かうルートをとることにしました。
そして、せっかく山陰本線を経由するのならということで乗ることにしたのがブルートレイン「出雲」でした。
また、この頃になるとダイヤ改正のたびにブルートレインや夜行列車が次々に廃止されていく中で、うかうかしていると「サンライズ出雲」はともかくとしてもブルトレ「出雲」も未乗社のまま廃止されてしまいかねないので、乗れるうちに乗っておこうというのも「出雲」を選んだ理由でした。

2003年9月11日(だったと思う)、私は20時半頃に東京駅に到着。構内のコンビニで飲み物と朝食用のパンなどを購入してホームへ上がりました。
やがて品川から回送されてきた「出雲」編成が入線。ひととおり編成の前から後ろまで車号をチェックしながらホームを歩いてから私も乗車しました。
そして「出雲」は21:10に東京駅を定刻発車し、東海道本線を西へ下ります。
私がこの日乗車したのは、1号車の1人用A個室寝台「シングルDX」のオロネ25。
「出雲」に連結されていたオロネ25は、浜田発着の「出雲」が24系25形化された1976年10月からブルトレ
出雲「の廃止まで連結され続けた原型の0番台で、私にとっては子供の頃からの憧れの車両への初の乗車となりました。
さて、ついに乗車することができたオロネ25 0番台は、座席(ベット兼用)のモケットの色がオリジナルとは異なる色のものに変わっていた以外はほぼ原形をとどめていて、子供の頃にブルトレを取り上げた本・雑誌の写真や東京駅でホームから窓越しに覗き込んで見た時の雰囲気がそのまま残り、子供時代に一度乗ってみたいという憧れを抱いた頃を思い出させてくれました。
座席の上に枕や毛布、浴衣とともにA個室乗車記念(?)のヘッドマーク入りタオルが置かれていたのも昔と同じでしたが、ヘッドマークの絵柄はさすがに「出雲」だけがプリントされていました。(ちなみに、後に「富士」のシングルDXを利用した時には、「さくら」「はやぶさ」「富士」のマークと赤いJRロゴがプリントされたタオルが置かれていました)
実際に乗ってみると、車窓を眺めるために窓に近づきたいのに備え付けの洗面台が邪魔だったりして、JRになってから登場した他の個室寝台車と比べてのわずかな不満はあるものの、ブルートレインにハマった子供の頃を思い出しながら一夜を過ごすには十分な空間でした。
静岡駅に停車したかしないかぐらいのタイミングで就寝し、翌朝はどのあたりで目覚めたのか記憶はありませんが、おそらく福知山駅を出てしばらくしたあたりだったかと思われます。
そして、当時すでに現在のコンクリート橋梁への架け替えが予定されていた余部鉄橋を渡ったのを見届けたところで、元食堂車オシ24へ向かいました。
「出雲」に連結されていたオシ24形は、国鉄時代最末期に東京ー博多間のブルートレイン「あさかぜ1・4号」の車両グレードアップ計画の一環で内装を大幅にリニューアルした「星空風」食堂車で、1991年に「出雲1・4号」の食堂車営業が休止された後も「ロビーカー」的なフリースペースとして「出雲」廃止までそのまま連結されていました。
テーブルやイスもそのまま残っている食堂車内では、前夜の東京駅内のコンビニで購入しておいたパンと缶コーヒーで朝食。曲がりなりにも食堂車で朝食をとることができたのはよい思い出になりましたが、やはり実際に食堂車でできたての朝食を食べる経験ができなかったのは悔やまれました。
個室に戻りのんびりしているうちに、9:20頃到着の米子駅が近づいてきました。せっかく乗るなら終着の出雲市駅まで完乗したいところでしたが、この後の行程の都合もあり残念ながら米子駅までの乗車となりました。

結局、「出雲」への乗車はこの時が最初で最後となりました。
今思うとあの時、あえて岡山に直行せずに「出雲」を利用してよかったと思いますが、一方で当時は鉄道写真の撮影を一時や住んでいたため、国鉄職のDD51が「出雲」を牽引する姿を写真に残しておきたかったという思いは今もあります。
山陰地方へは、この時の「出雲」に乗車しての通過が唯一の訪問経験で、実質的にはまだ訪れたことがない地域でもあるので、ぜひいつか「サンライズ出雲」に乗って訪れたいと思っています。