【鉄道中心】42年前の磐梯家族旅行の思い出 その3 | あさかぜ1号 博多行

【鉄道中心】42年前の磐梯家族旅行の思い出 その3

こどもの頃の家族旅行

 

 

 

 

 

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42年前の夏休みに、私と家族、それに父親の同僚のWさんの一家と福島県の磐梯地方へ家族旅行へ出かけた時の思い出、今回も続きます。

2家族での旅行最終日は、2晩宿泊したペンションをチェックアウトした後、車で少し走ったところにある陶器の工房に出かけました。
ここでは皿などの絵つけの体験ができるということで、私たちも体験してみることになりました。
私は丸くて平たい皿に絵を描くことになりました。どんな絵を描いたのかは忘れてしまいましたが、もともと絵が下手な上に陶磁器に絵を描くというこれまで経験のないことだったので、かなり微妙な出来栄えのものになってしまったと記憶しています。
それでも、後日工房から自宅に届いた自分の「作品」にはそれなりに愛着がわいたものでした。

絵付け体験が終わり、お昼を食べたりお土産を購入したりしたら、いよいよ磐梯地方ともお別れです。
喜多方駅から乗車したのは、キハ58系気動車による急行「あがの」でした。
この列車でも乗車したのはグリン車キロ28形でした。行きの「ばんだい」同様おそらく普通車よりも座席確保がしやすいという理由からだったのかもしれませんが、単純に「グリーン車=豪華」という感覚のあった子供心には、立て続けに2回もグリーン車に乗れたというのは何だかすごいことのような気がしました。
結果的には、行きの「ばんだい」で乗車したサロ455形もこのキロ28も、乗車体験はこの旅行での1回だけだったので、そういう意味では貴重な経験となりました。
「あがの」は仙台行のため、関東へ帰る私たちは郡山駅で下車。
そしてここまで一緒だったWさん一家とはここでお別れとなりました。
郡山駅では乗り継ぎ時間に少し余裕があったからか、ホームや跨線橋の窓から駅構内に広がる当時の郡山客貨車区などの側線群をしばらく眺めることができました。
茶色い旧型客車やたくさんの貨車が構内にひしめく光景は、鉄道好きの小学生にはとても楽しいもので、線路も大幅に整理され車両の姿もあまりない近年の同じ場所の状況を思うと懐かしいものがあります。

さて、郡山から乗り継いだのは、大宮ー盛岡間暫定開業から1か月が経過したばかりの東北新幹線。
やはりこの時期に東北方面へ家族旅行へ出かけるなら話題の新幹線にはぜひ乗りたい(あるいは私を乗せたい)と考えたのか、それともむしろ新幹線に乗りたい(乗せたい)がために家族旅行を企画したのか、父親の狙いはよくわかりませんが、いずれにしても小学生ゆえ大人ほど気軽に新幹線に乗りに行くことも難しい身にはかなり嬉しいことでした。
乗車したのは、号数は忘れてしまいましたが郡山を16時前後に発車する「やまびこ」。
ホームに滑り込んできた200系の姿は、鉄道雑誌やらテレビやらでもうすっかり見慣れたものでしたが、生で見るとやはり新鮮な感動がありました。
そして走り出してみれば揺れの少なさは噂通りで、当時テレビで東北新幹線を取り上げる時によく流れていた、座席背面テーブルなどに立てた煙草が倒れないという映像を父親が真似してみせた時にも見事にしばらく立ったままの状態を維持していました。
しばらく座席で乗り心地を味わった後、私と父親は9号車(だったかな?)のビュフェへと向かいました。
このビュフェにはデジタル表示のスピードメーターがあり、それを見に行くのが目的でした。私としてはせっかくビュフェへ行ったのなら何か食べたい気満々でしたが、食事にはやや中途半端な時間ナタメかそれは許されず、私の食堂車・ビュフェでの食事初体験はお預けとなってしまいました。
結果的にその後も他の路線も含め新幹線のビュフェを利用する経験には恵まれず、せめてあの時ミックスサンドとジュースあたりでもいいから味わうことができていたら、よりいい思い出になったのではないかと惜しまれます。
ちなみに肝心のスピードメーターの方は、10分ほどビュフェにいた中では200㎞/h越えの表示は見ることができず(当時の東北新幹線の最高速度は210㎞/h)、最高でも190㎞/h前後だったように記憶しています。

初めて乗る東北新幹線に興奮しているうちに、「やまびこ」はあっという間に終着の大宮駅に到着。
ここまで新幹線に乗って来たのなら、ぜひ当時上野ー大宮間で運転されていた新幹線連絡列車「新幹線リレー号」にも乗ってみたい所でしたがさすがにそれはできず、川越まわりで自宅へ帰るため、当時まだ地上にあった川越線ホームへ向かいました。
当時の川越線はまだ非電化で、キハ30・35形による気動車列車が運転されていました。運転本数も今ほど多くなく、都内から30~60分圏内を走るとは思えないほどローカル線ムードの感じられる路線でした。
この日乗車したのもキハ35系の6~7両くらいの編成の八高線直通東飯能行でした。
大宮駅発18時頃の列車とあって車内は立ち客も多い混雑ぶりでしたが、それでも都内発着の路線と比べれば込み具合もまだましといったところだったように記憶しています。
大宮駅を発車してエンジンをうならせながら走りだすと、その走りとロングシートで混雑した社内とのギャップがとても新鮮でした。スピードも電車化された現在と比べ遅く、この路線(大宮ー川越間)がその後、当時は「通勤新線」と仮称されていた後の埼京線と直通運転して池袋・新宿・渋谷まで乗り換えなしで結ばれただけでなく、さらに横浜市内を経由して相鉄の海老名駅まで1本のレールでつながることになろうとは、全く想像もつかないのどかさでした。

大宮から30分ほどで到着した川越駅では、私たち一家も含め多数の人が下車し、列車の方もそれを反映してか私たちの乗っていた車両を含む後部2~3両がここで切り離されました。
川越止まりの車両を切り離した後、東飯能へ向かう編成の最後部には、国鉄型気動車では珍しいステンレス車だったキハ35系900番台が連結されていました。すでにこの時代には車体全体が「タラコ色」(首都圏色)の一色塗装になっていましたが、昭和のステンレスカーならではの外板のコルゲートはそのまま残されていて、この車両を見る(撮る)ことができただけでも、今思うとかなり貴重な経験ができたと感じます。
また、父のカメラを借りて(まだ自前のカメラを持っていなかったので)この時撮影した写真の中には、その川越駅川越線ホームから撮影した東武東上線の8000系電車の写真もありました。
その時はたまたまやって来たからというだけで特に何も考えずシャッターを切りましたが、「セイジクリーム」色の塗装と「東部顔」と呼ばれる前面形状という当時の東武鉄道の通勤型電車の姿がよくわかる、今となってはこれも貴重な記録になりました。

以上、42年前の磐梯家族旅行の思い出でした。予想通り、純粋な家族旅行の思い出よりも、その行きかえりの列車の思い出の分量の方が圧倒的に多い結果になってしまいました。すみません。
でも、こうして久しぶりにこの旅行のことを思い出してみるとやはり家族旅行は懐かしく楽しいものでした。
また「鉄」目線で見ても、この時乗車した車両は40年以上を経た今はもう見ることも乗ることもできないものばかりで、東北新幹線「やまびこ」以外は列車としても過去の存在になっているなど、時の流れを感じさせられます。
それでも東北新幹線暫定開業からもう42年というタイミングではありますが、その当時の思い出を振り返ることができたのは、やはり楽しかったです。