あの頃の三浦海岸 | あさかぜ1号 博多行

あの頃の三浦海岸

今でも覚えてる一番幼いころの思い出は?

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あなたもスタンプをGETしよう私の記憶に残っている一番最初の思い出は以前にも何度も記事にしているので、今回はまだ記事にしたことのない思い出を。
これも何度も書いているように、私は4歳頃まで両親や父方の祖父母とともに東京都大田区に住んでいました。
その頃住んでいた家の近所には私と同じくらいの齢の子供があまりいなかったらしく、私が近所の子供と遊ぶ機会が少ないのではと心配した祖父が、よく私をいろいろなところへ連れて行ってくれました。
家からバスで行ける羽田空港の旧旅客ターミナルの展望デッキに飛行機を見せに行ってくれたり、横浜の山下埠頭で展示されている氷川丸や当時人気だった京急油壷マリンパークなど、あちこちへ私と母親を連れて行ってくれました。
そして夏になると三浦海岸へ海水浴に何度か連れて行ってくれました。
今ではすっかり下火になってしまった海水浴ですが、私が幼かった1970年代中ごろから後半あたりは夏のレジャーといえば海水浴という時代で、祖父もその流れに乗って私を海水浴に連れて行ってくれたのだと思います。
家の最寄り駅である京急の雑色駅から普通電車に乗り、2駅先の京浜川崎駅(現在の京急川崎駅)で三崎口行や三浦海岸行の快速特急や特急に乗り換えると、車内はものすごい混雑だったのを覚えています。
当時の京急では、毎年7・8月になると「海水浴ダイヤ」という特別なダイヤが施行され、定期の快速特急や特急の他に臨時の快速特急や特急が増発されて多くの海水浴客の輸送に対応していましたが、それでもやはり三浦海岸方面へ向かう列車は大混雑というのが日常だったようです。
1時間ほど満員電車にもまれて三浦海岸駅に着き、海水浴場へ向かうと当然ここも人、人の波。更衣室から砂浜、波打ち際に近い海の中まで「まるで芋の子洗うような」という表現がぴったりくるような混雑ぶりでした。
これだけの混雑なので祖父や母親は私が迷子にならないようにかなり神経を使っていたようです。事実、海水浴場にいると頻繁に迷子のお知らせの放送が聞こえてきました。
もちろん海の家も大盛況だったはずで、私たちもたぶんどこかの海の家でお昼を食べたり休憩をしたと思います。何を食べた課まではよく覚えていませんが、たぶん焼きそばとかフランクフルトとかかき氷なんかを食べたんだと思います。
またその頃の三浦海岸では海水浴客誘致のためのいろいろなイベントも行われていたそうで、中でも平日の昼過ぎには当時人気のアイドル歌手が日替わりでゲスト出演するラジオ関東(現在のラジオ日本)の公開生放送は大人気だったそうです。ただ、私自身はそうしたイベントを見たり参加したりした記憶はありません。
祖父や母親がその手のイベントに興味がなかったからなのかどうかはわかりませんが、今思うともしイベントをやっていたらぜひ見てみたかった気がします。
とにかく今から50年弱前の三浦海岸は大賑わいでした。かなりの混雑ではあったけれどそれなりに泳ぎ(というより水遊びといった方が適切かもしれませんが)を楽しむことができ、とても楽しかったのを覚えています。
海水浴を楽しむ人もあの頃とは比べ物にならないくらい少なくなってしまった今となっては、夏になるとほぼ毎日のように夕方のテレビのニュースで多くの人で賑わう三浦海岸の様子を放送していたのも懐かしい思い出です。