不安研究CACE-06 人の目が気になる不安。 | 石読みと人間観察ラボ

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不安とは―

ふ‐あん【不安】

[名・形動]気がかりで落ち着かないこと。心配なこと。また、そのさま。
 
 日常に潜む漠然とした不安感は、人の精神を脅かし、安定感を無くしてしまい、それは幸福とは程遠い精神状態へとなってしまいます。
そんな不安を研究し、どのように対処していけばよいか、安心感を得られる方法はあるのかを調べることを目的として、
ウィリアム・D・上原先生よりアドバイスをいただき、”不安研究所”を立ち上げさせていただきました。
 
というわけで、不安研究所第6回目です。
 
 今回は、人の目が気になってしまってなんだか不安になってしまうという方の為にお話しようかなと思います。
これはですね・・・。私もこの要素を多く持ちますので、気持ちは物凄くわかります。
 特に思春期なんかだと、遠くで笑っている子達が、自分のことを指して笑っているんじゃないか・・・とか、
自分がもつ劣等感によって、自分が周りから嫌われているとか、卑下されているように感じてしまって、生きづらかったりすることもありました。
人と一緒だと安心できるから、周りに合わせてどんどん自分を無くしていっていたこともありましたね。
 
 これは何故かというと、日本人は農耕民族なので、人と歩調を合わせることや調和すること、和を大切にすることがDNAに組み込まれるくらいのレベルで集合的無意識下に染み込んでいるんですね。日本では災害が多いです。地震・雷・火事・親父って言うじゃないですか。台風や津波もありますね。そういう災害の多い土地で住むときに、何かあると皆が一丸となって立ち向かわなければならないわけです。
一匹だと小さくて非力だけれども、集団で立ち向かう事で食べられることなく大きな魚を撃退させることができたスイミーのように。
知恵を絞り機転を利かせて、皆で生きて行けるよう頑張ってきたのですね。
 そんな時に輪を乱すようなことをする人がいると、それが誰かの死に繋がることもあるため、協調性と秩序を持って行動することを良しとして来たのです。それが過剰となると、同調圧力や村八分といった、個を非難し排除するという行動へと発展してしまうのですが、
この流れこそが、ある種の不安を生んでいるのではないかなと感じます。
 
 みんなといっしょじゃなければ、排除されてしまうかもしれないという不安。それが根底にあるのかもしれません。
 
 『いじめ』というのはその典型的なシステムだと言えるでしょう。いじめは一対一、あるいは集団で弱い子に嫌がらせを続けて排除しようとする、追放に追いやってしまうという、どの国でも問題となっている行為です。
 いじめに登場する人物は、いじめる人、いじめられる人、そして、大勢の傍観者に分けられます。何故いじめられている人を助けないのか?
それは、いじめられる人を自分が助けると、次は助けた自分がターゲットになるかもしれないという集団的不安心理が働くからですね。
 
 この不安を解消するには、どうしたらいいでしょうか。
 
 まずは自分ならどうするか、を考えてみるといいかもしれません。
離れたところにいる誰かが自分を笑っているような気がする。けれども、自分のどこに笑われるような要素があるのかを考えてみる。
また、自分がその笑っている子の立場なら、自分を笑うだろうか?と考えてみてください。
 
 私の母は、私のさらに輪をかけて周りを気にする人なんですね。
例えば、自分の目上の人とすれ違ったときに挨拶をすることを忘れたとしたら、それを気にして落ち込んで、一日中クヨクヨするようなところがあるんです。そしてそれを数日に一度は思い出してはまたクヨクヨするを数年間続けるようなところがあるんですけど、あまりに何度もそのことを言うので、
 
「お母さんがその人の立場だったら、いち部下があいさつしなかっただけでそんなに気にする?」
 
と聞いてみたら、
 
「そんなことでずっと気に病むことないわ」
 
って言うんですね。
 
「そうやんな。じゃあきっとその上司の人も今頃忘れてると思うで」
 
 というと、あぁ・・・と目から鱗を落とすようにびっくりした顔をするんです。
意外と人ってそんなに周りを気にしていないんですよね。
じぶんが誰かに笑われている気がしたら、今度は自分が誰かといる時にそれを思い出してみてください。
割と相手や相手の持っている物にしか目がいかなくないですか?
そう、誰かが自分を見ているという事自体が、自分の中で作り上げた物語だったりするんです。
人の目を気にしている時、それは周りの目を気にしているからというように見えて、実は一番自分を批判している時だったりするんですよね。
 自己卑下や自己否定が強いと、その傾向のストーリーを自分で作り上げて、自分で激しく落ち込んでしまうんです。
なので一度意識をフラットにして、まずは”個”に立ち返ってください。
 
 次に、周りがどうであろうが”関係ない”という事も意識されるといいかなと思います。
自分以外の誰かが自分を指してどう思おうが、自分が何を考えようが、本来は”関係ない”んです。
人は人、自分は自分でまるで違う感覚や感性で生きている。
だから本当は、他人が自分をどう思おうがそれはそれでその人の自由。
自分が誰かをどう思おうがそれは自分の自由です。
好きな芸能人、嫌いな芸能人を見て、思うこと、感じることがあるでしょう。
それと同じことは、同じ立場で同じような所にいる人達も思ったり感じたりしているんです。
そんな人の当てにならない評価を、しかも辛い評価を、わざわざ想像して傷つかなくてもいいんですよ。

 何年も前に新聞で観たことですが、アメリカの研究で、いじめは孤立した一人の人をターゲットに起こることはとても多い反面、いじめられている人に友達が出来たり、一人でなくなると途端にいじめが解消するというケースは多いそうです。
 私も学校ではどこか浮いていたり、頼りなく見える方だったので、よくいじめのターゲットにされていたのですが、そのいじめっ子がいない所で誰かと仲良くしたり、味方を見つけて仲良くしたりしていたら、いつの間にかターゲットが変わったりいじめが立ち消えていたという事が何度かありました。
 そして問題を抱えているのは、実はいじめっ子の方であるという事もわかってきているそうです。
いじめる側は、自分が受けた傷を自分より弱い誰かにぶつける傾向があるのだそうで、その兆候として、虫や小さな生き物をいたぶるというところから始まり、それがだんだんエスカレートしてきていじめへと発展するというケースもあるそうです。
 
 いじめられる側は、その教室には逃げ場がなくても、図書室や保健室などのいじめっ子が介入できない場所や、学校外で誰かと会える場所などがあれば、そこが傷を癒す空間となって少しずつ立ち直りながら、今後どうしていくかの戦略を立てる準備が出来るようになっていくでしょう。
 
 そして、いじめる側にもその心の問題を提起できる機関が出来てくれば、その心の歪みが解消されて傷を癒すことができるようになるかもしれません。そしてそのために、沢山のカウンセラーが必要とされるようになっていくでしょう。
 
 かつて集団で生きることは、多くの災害や被害から身を守るための手段でしたが、水瓶座の時代が来てからは、個を尊重し、自分らしく生きることが必要とされてきている、そんな流れを感じます。個を確立してから、明滅して信号を送るシグナルのように、遠くで繋がったり、ある一面だけで繋がったりというような”個の沢山集まった集団”というものが出来てくるかもしれません。
そしてそこから、新しい時代の生き方というものが確立していくのかなと感じています。
 
 
オマケ。

 

 

今日はボカロではないのですが、スピッツで一番好きな曲で、夢追い虫です。
明るいだけではなく、さわやかでもない、ちょっとしっとりとして深みのある、そんな傾向のあるスピッツが好き。
 
 
それでは今日はこの辺で。
 
一人でも集団でも、なんだか大丈夫な安心感のある世界を想像して創造しながら、
おやすみなさい。