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を感じるなぁ〜)
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このブログは、僕が1人の女性と出会ったことで、波瀾万丈な道のりを一緒に乗り越えていく連載ストーリーでお届けしています。
今回は、第18話をお届けします。
【前回までのお話】
前回は、母が入院した事のお話しでした。高齢者がケガで寝たきりになることの怖さと、経済的な困窮がもたらす精神的な判断ミス…
そのお話を進める前に母のことを少し書いていきます。この当時は常に両親のことで悩みが尽きませんでした…
帰宅がおっくうな日々…
父は僕が15歳の時、42歳で蜘蛛膜下出血により、12時間以上にも及ぶ手術のおかげで、一命は取り止めはしたものも右半身不随。実際は全ての手術ができたわけでなく、手を下せない箇所もあったくらいでした。
(母の懸命の祈り
が通じたのか、全て綺麗になくなっていたと後で母からは聞きました。さすが母です)
この時、僕は高校1年。 当時父が倒れる1週間以上前から原因不明な腹痛が続いていて。(食欲は馬鹿みたいにありましたw)だから、父の手術の時は学校休んだんですけど、当時の先生からは病院に行くと言っていたから僕自身のことだと思っていたみたいですwこれも何かのお知らせだったんですかね。
そこから母は経済的な苦労が死ぬ迄尽きない事になりました。以前からも経済的には大変だったとその後から聞いてはいましたが、この父の大病を皮切りに一気に大変な生活がより辛く大変になっていったと聞きました。
父はリハビリである程度の生活ができるようになるも、以前の様に太陽の下を歩くことはありませんでした。外出ができる様になったのは退院してから2年近くは篭っていたと思います。
この時も母は入院中の父の看病、僕と妹の面倒を見て、少しの時間を作ってはパートに出かけたりしていました。父が倒れた時は親戚中や友人に頭を下げてお金を借りていたというのも母の死後わかりました。
父が職業訓練校に行くも、解雇、再就職の繰り返し。母もパートなどで生計を立てるも父の補助もある為良い職には巡り会えず。
僕もそれを目にして、高収入の仕事を探すことで職を転々とするため借金ばかりがかさんでいく毎日。
それでも母は愚痴も言わず、笑顔で応援してくれていましたし、父も同じでした。この頃の母の苦労をもっと理解していたらと思うと胸が苦しくなり涙が止まらなくなります…
そんな苦労の連続で母は70歳目前からパーキンソン病を発症し、薬で進行を遅らす程度の治療しかできませんでした。薬の副作用で笑顔も少なくなり、いつもぼんやりとしている状態でした。食事もいつも大変そうで辛そうでした。
2017年の頃には母の認知症が発症し、父とのコミュニケーションがうまく取れなくなり、さらに幻覚を頻繁に見ることで現実との区別がわからない中で生活をしている母でした。「小さい子私の布団で寝ているから起こさないで」とか「大きな黒いものが私の事を上から見ている」とか結構色々ありましたw
実はこの頃、母が入院する少し前に、このままでは共倒れになると思い、それまでためらっていた両親の介護施設への入所の相談を市に相談してた、その矢先に母のケガと入院となったのです。この時は遅すぎたことを痛感しました![]()
父の目の前で幻覚相手とやり取りをする母を認めたくない父は、我慢の限界を越え、ついには暴力を振るうという行動が増えることなっていたようです。 更に悪い事にこの暴力は僕の前ではしなかったのです。
母は僕に父から叩かれると伝えてきていたので、父には注意はしていたのですが…さらに父は母と話すこともなくなり、四六時中寝ているか、毎日ベランダで黙って空や植物、行き交う人を眺めながら、口数が少なく毎日を過ごす様になりました。
今思えば、この行動で認知症が出てきたように思っています。
母の認知症はさらに進んでいき過程で、幻覚と話すだけでなくトイレの便器で洗濯をしたり、急に炊事を始めたと思ったら、全く食べることができないものを作ったりと、ケガや事故がいつ起こってもおかしくないくらいの毎日でした。
そんな中で定食屋さんとの出会いと彼女の出会いは、僕にどれだけの安堵感と幸福感を与えてくれたことか![]()
>>>つづく
次回予告
母との最後のお別れです。
葛藤しかなかった僕に側にいて寄り添ってくれた彼女のありがたさ…
最後まで読んでもらえて嬉しいです!!
ありがとうございました。
(
だろ?
)
これに懲りずに
またきてくださいね〜![]()
Pノ助٩( ᐛ )و![]()
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