私たちの通常の思考(そして、感情、意志)の基盤を悟性魂/心情魂に見て、その魂にミームが寄生虫のように浸潤していると見たときに、私たちの魂と、本来的に過去の積み重ねであり、繰り返しであるミームとは、重複して見える。同一視できるまでに重複している。
つまり、私たちの魂と同一視されるミームこそが、私たちの悟性魂/心情魂としてのアストラル空間である。
だから、この空間にはミーム由来の過去から来るイメージが充満している。そして、私たちはこれらのイメージを操作して、そのイメージ世界をどうにかこうにかしようとする。
しかし、多くの場合、いやいや、必ず、その過程において、うまくいかないこと、不都合が生じるものだ。なぜなら、それらのミーム由来のイメージは、恣意的に操作できないからである。操作されるのは、むしろ私たちの方だ。
イメージによって、あなたが操られる。何らかのイメージが浮かぶと、あなたは自動的に無自覚に反応してしまう。主体性などないのだ。
例えば、あなたが近所のスーパーに夕食のための具材などを買いに出かける。この時点で、あなたには今夜は何を作ろうという具体的なプランはない。スーパーに行けば、何か思いつくだろうと考えているのだ。そして、店内を歩いていると、イチゴが目に入る。何となく食べたくなって、イチゴを2パック、カートに入れる。そのすぐ後に、パイナップルが安く出ていることに気づく。イチゴより長持ちするよな、と気持ちが浮かんで、1個入れる。ふと、「イチゴには練乳だ」という思いが出てきて、そっちのコーナーに移動。何種類か出ていて、目移りするが、一つ選んで入れる。まだ、メインディッシュのための食材を選んでいないことを思い出し、お肉のコーナーに行くが、今日はやっぱり魚がいいか、と思い直して、肉は買わずに、魚のコーナーに移動する、などなど・・・とにかく、スーパーの買い物一つ取っても、そこで費やされる精神的な活動の量と多様さは測り知れない。
通常、このような買い物に際して、あなたが成す精神活動は、あなたの周りに現れるイメージによって支配されており、その意味において、あなたの側に主体性はなく、あなたはイメージに依存しており、イメージに依存しているかぎり、あなたの精神活動はどこまでも恣意的である。そして、あなたはその恣意性に無自覚なのだ。
このように例示してみた場面において、スーパーの諸々の食材がすべてイメージに過ぎないなどと言いたいわけではない。ただ、それらがリアルであるか否かに関わりなく、アストラル空間においてイメージとして登場していることに変わりはないし、それらのイメージを生み出している大本にミームがあり、そのミームに対して私たちが常に受け身の状態にあり、そのように受け身の状態にあるという現実に私たちが無自覚であるというところに、悲劇的/喜劇的なからくりがある、ということなのだ。
ミームのアルゴリズムがそのまま私たちの成す通常の思考、悟性的思考である。入力する変数次第で、アルゴリズムが導き出してくる結果/回答は変わるから、無数の答えが可能であるかに見えて、その可能性は静的で、閉じているのだ。入力可能な変数自体、すべて、ミーム空間内にいわば閉じ込められており、ミームに由来するからだ。つまり、悟性的思考に関しては、入力される変数から、ミームのアルゴリズムを経て得られる回答/結果に至るまで、すべてがミーム空間に閉じ込められている。そして、あたかも回転木馬のように、同じことが繰り返される。ミームのアルゴリズムが、また別のアルゴリズムに接ぎ木されるが、どこまで行ってもミームの外には出られない。
そして、気づいたら、あなたは前と同じ場所にいる。いやいや、あなたはずっと同じ場所にいたのだ。円球としての物質界の地球に。そして、そのアストラル空間に。
一人の人間が、その全空間を鳥瞰することはできないし、ミームのアルゴリズムを逐一点検することもできない。そして、一度始まったシナリオ/ゲームは、あなたを置き去りにして、勝手に終わりまで進んで行く。あなたの目の前を、いくつものイメージが近づいては遠ざかり、現れては消えてゆく。あなたは為す術なく立ちすくむ。