生と死の深淵 ~ 境域 | 大分アントロポゾフィー研究会

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悟性魂/心情魂と意識魂の間に

それはある。

生と死の深淵が。

 

さて、「間(あいだ)」とは、この場合、何のことなのか?

 

悟性魂/心情魂が、生と死の深淵を見ることはない。

その魂の奥底に潜む根源的な恐怖故に、人は通常、そこから目を背ける。

 

しかし、人間がこの地上に生を受け、やがて死ぬという必然的なシナリオから、人は逃れることはできない。

とりあえずこの不可避のシナリオから目をそらして、この地上の生を営むにしても、その過程で、必ず何らかの運命的な出来事が起こってくることは避けられない。

そうした時に、人は、まさに危機に瀕して(ひんして)いる。その危機の正体は、境域に他ならず、人は危機であり境域であり、生と死の深淵であるものに直面して、それを乗り越えることができるか否か、運命によって試されているのだ。

 

対峙の仕方如何(いかん)によって、人は瀕死の痛手を負う。ことによると命を落とす。

悟性魂/心情魂のミームのアルゴリズムによって、この深淵を乗り切ることはできないから。悟性魂/心情魂のキャパシティを越えたところに、いやいやその魂のキャパシティでは及ばないというその事実こそが、境域の正体なのだ。

 

ここで、そもそも悟性魂/心情魂のミームとは何なのかということを、今一度確認しておきたい。

 

悟性魂/心情魂のミームを俯瞰することは、悟性魂/心情魂によってはできない。そのアルゴリズム自体が悟性魂/心情魂だから、悟性魂/心情魂のベクトルから、それ自身に他ならないそのアルゴリズムの委細とその経緯とは明らかにならない。

人間にできるのは、ミームのアルゴリズムをなぞり、それに則って、悟性的思考を成すこと、そのように考えて、一時的な安穏(あんのん)に生きることだ。

そう、その安穏はそう長くは続かない。

ミームのアルゴリズムではカバーしきれない人生と宇宙の複雑系が、やがて姿を現す。その運命的なものは、しかるべき時に現れる。

むき出しの霊が、あなたの前に立っている。あなたはそのとき、境域に至ったのだ。

その境域は、カルマ的なものであり、カルマの担い手である本来の自我が、意図的に生み出したものである。本来の自我は、悟性魂/心情魂のミームとは、まったく別の存在である。そもそも、ミームは非在であり、フィクションである。仮象としてのイメージを、人間に見せる仕組みがミームなのだ。通常、人はミームであり、悟性魂/心情魂であるアストラルなものと同化しており、本来の自我のことを忘却している。

 

人は、この地上の世界に生れるために、霊たちの国から分かれる。この分離において、反感の力が働いており、この離反の記憶ゆえに、人は反感を起点としたミームのアルゴリズムを構築せざるを得ない。

一方、人間は、霊たちの国から離れると同時に、地上の世界へと入ってゆく。物質界の中へと入ってゆくのだ。このとき人は、最大限の勇気を奮い起こして、物質の世界に降り立つ。勇気の源は、愛であり共感である。そう、人は愛と共感を以て、この地上の世界へとやって来るのだ。

 

物質界への愛と共感、霊たちの国に対する反感、そしてこの反感を起点としたミームのアルゴリズム。