ものごとを見つめるその視線を、自我が生み出す。その角度を、その透明な屈折のようなものを。
その方向からあなたが来るとしたら、それはカルマである「あなた/Du」ゆえだ。
また、その方向へあなたが向かうとしたら、やはりそれは、カルマである「あなた/Du」ゆえ。
その方向にあるそこからしか見えないものごとの在り様がある。その景色は、そこからしか見ることができない。そこからしか見ることのできぬ全体の一部だ。
山の形が見る角度によって変化するのと同じ。誰もが同じ山を見ているのだから、誰にも、「それはその山ではない」と主張する権利はない。それぞれ違う場所に立って、異なる角度から、その山を見ているのだから、見え方は変わるのだ。
記憶と思考の集積であるカルマとしての自我が、ものごとを見、ものごとに関わる際のベクトルを生み出す。ある意味において、そのベクトルこそが自我である。いわば、リーマン空間の放物線のようなもの。その放物線のようなものが、音楽になり、絵画になり、文学になり、・・・芸術になり、他ならぬ日々の暮らしになる。
ただし、生と死の深淵である境域を前にして、恐れ怯めば(ひるめば)、その放物線は力を失い、本来の姿と形を失って、失速し、迷走し始める。無明の無間地獄へと墜落してゆく。その暗黒状態を回避しようとあがく人間の絶望的盲目的な情念の渦巻きの中に、ルシファーからの誘いが来る。人はルシファー的な幻想の中へと入っていく。その幻想空間の中では、醜ければ醜いほど、美しく感じられる。倒錯とモラルハザード。ルシファーの悪魔のシナリオに、あなたは巻き込まれる。
冒頭の呪文(1幕1場): "Fair is foul, and foul is fair. Hover through the fog and filthy air."(きれいは汚い、汚いはきれい。霧と汚れた空気の中を漂う)
大釜の呪文(4幕1場): "Double, double toil and trouble; / Fire burn, and cauldron bubble."(倍になれ、倍になれ、苦労に苦悩。炎よ燃え、大釜よ煮え立て)
(シェークスピア『マクベス』 cf. Google AI)
境域から逃亡して、マテリアリズムとセンチメンタリズムに救いを求めれば、そこにアーリマン/ルシファーが待ち受けている。