さて、やはり、アストラル空間には、イメージ以外のものは現れないのだろうか?
先日、私の住む地域のジュニアオーケストラのコンサートに行った。
演奏曲目は、ヴィヴァルディの『四季』、ムソルグスキーの『禿山の一夜』、そしてベートーヴェンの交響曲第五番である。
ヴィヴァルディの『四季』は、世界的に人気のあるヴァイオリン協奏曲集。「春」「夏」「秋」「冬」の4曲のヴァイオリン協奏曲から成る。バロック時代によく作られた一種の標題音楽だが、ヴィヴァルディの視点は、そのままベートーヴェンの第六交響曲『田園』に直結する。描写音楽にありがちな安手のセンチメンタリズムに陥らないのが素晴らしい。つまり、これは単なる描写ではないのだ。そして、なんとこの4曲のすべての楽章に、ソネットが付いている。こうなってくると、『四季』はそのままリストの構想した標題音楽の直系の先祖だと言ってもよい。
この日の演奏では、「春」「夏」「秋」「冬」ごとに4人のソリストが入れ替わり演奏した。それぞれの奏者の個性も感じられる素晴らしい演奏だった。それぞれの奏者の個性とヴィヴァルディが曲に込めた個性を超えた何ものかが響き合う類まれな40分間。
休憩後は、ムソルグスキーの交響詩『禿山の一夜』で始まった。
ウィキペデアに興味深い一節を見つけた。
“バラキレフは、その粗野なオーケストレーションを批判し、修正を求めたが、ムソルグスキーが修正を拒絶したために演奏を断った。演奏も印刷もされないまま、この版の存在は忘れられていたが、・・・”と、ある。バラキレフはムソルグスキーもそのメンバーだったロシア五人組のリーダー。その二人が『禿山の一夜』のオーケストレーションを巡って対立する。両者折れずに、曲は長いこと日の目を見ないままになる。
ともあれ、幸い私はこの曲の実演を聴くことができたのだ。ラッキーだとしか言いようがない。この曲を作っていた時、一体ムソルグスキーの脳裏には、何が訪れていたのか? いやいや、彼の魂には。
最後の曲は、ベートーヴェンの交響曲第五番。この曲の第4楽章に至って、私はまたもやえも言われない体験をしたのだ。指揮者とオーケストラのメンバーが一体になって、相互に交感しながら、メンバー同士もお互いの出す音の変化に臨機応変に反応して、曲を推進していく。そして、ふと気づいたのだ。ビオラパートで演奏していた一人の女性奏者の屈託のない高貴な笑みに。彼女が私から見えやすい位置で演奏していたので、私はそれに気づいたのだろう。このときの演奏の雰囲気、指揮者とオーケストラのメンバーから一つになって醸し出されている熱気からすれば、この笑みは彼女一人に限らないはずだ、と私は思って、私はオーケストラの醍醐味というものをあらためて満喫したのである。曲はセンチメンタリズムを決して煽ることなく、驚くべきエモーションの充溢のうちに終わった。
このままコンサートが終わってほしいと思っていたが、幸か不幸か、アンコールでヨハン・シュトラウス(子)の『雷鳴と雷光』が演奏された。ポルカである。2拍子である。1212121212・・・。