アストラル空間 (1) | 大分アントロポゾフィー研究会

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眠りから目覚めて、私たちが自らの周りを見回す。

そこにアストラル空間が広がっている。

目覚めている間、私たちはそこから抜け出すことはできない。

 

私たちは誰もが、その空間が客観的なものであって、みんな共通の空間を意識して、そしてみんなそこに生きているのだ、と思い込んでいるが、実際は、一人ひとりの意識し、感知するアストラル空間は、その客観性を主張することはできない。私たちそれぞれの主観が、それぞれのアストラル空間に他ならないから。

 

アストラル空間はイメージの空間である。

数えきれないイメージが(そもそもイメージをいちいち数え上げること自体、不可能だ)、現れては消え、また現れては消える。

また、イメージは、私たちの内に秘めた情念の在り様次第で、瞬時に驚くべき変容を遂げる。現れては消えるということと、変容/変化するということは、実のところ別の事柄ではない。

また、私たちが何らかのイメージを思い出したり、忘れたりすることと、イメージが現れては消え、そして変化/変容することも、イメージにまつわる同一の現象なのだ。

私たちは、そうしたイメージの身勝手さに翻弄され続ける。コントロールすることなどできない。

 

このようなアストラル空間のダイナミクス如何にかかわらず、その空間に絶え間なく出没するイメージを見ている者は、あなたに他ならないのだが、奇妙なことに、そのあなたはあなたであってあなたではない。

端的に、本来の自我ではないと言おう。本来の自我ではなく、イメージの湧き出してきたその大本(元凶・・・)としてのあなただ。

イメージを失えば、イメージが見えなくなれば、あなたは意識を失う。意識を失うから、イメージが見えなくなるのではない。何も見えなくなるから、意識を失うのだ。古今東西の秘儀伝授の伝統においては、イメージが現れなくなっても、何も見えなくなっても、意識を失わずにいられることが追求されてきた。

 

偽りの自我がイメージを映し出す。アストラル空間にイメージが現れる。イメージが現れ、アストラル空間が広がる。

つまり、偽りの自我 - イメージ - アストラル空間としての魂 という一つながり、一つの関係性が現れる。偽りの自我とイメージとは同一であり、それはそのままアストラル空間としての魂に他ならない。

そして、偽りの自我と本来の自我とは、切れている。

 

さて、そのようにアストラル空間に、イメージが明滅する。イメージとは、つまるところ過去の亡霊。その非人間的な黒魔術にはまれば、あなたは死に至る病に取りつかれる。なぜなら、人間のエゴイスティックな情欲/情動/情念から生まれ、それら悪魔的な力が通る道を敷設するものこそ、イメージだから。いやいや、それは道そのものだ。イメージは、エゴイスティックな人間の情念/情動の通り道。その道のまま進めば、人は自らの魂を死神に譲り渡し、不自然な死に方をするに至る。センチメンタルな死だ。

ここに私たちは、“キリストにおいて死ぬ/ln Christo morimur”というマントラが意味するものの対極を見なければならない。

 

いずれにしても、私たちは古(いにしえ)より、イメージの魔力に取りつかれ、魅了され続けてきた。その出所に、悪魔的な存在が居座っていることに、うすうす気づきながらも、私たちはイメージというものが私たちの魂と体とに及ぼすその悪魔的力から自由でいることはできなかった。狡賢い(ずるがしこい)人たちは、他者をコントロールし、自らの力を誇示するために、イメージの魔術を濫用しさえする。彼らは、要するに、自らの魂を売って、悪魔と契約を交わしているのだ。

 

では、アストラル空間には、イメージ以外のものは現れないのか?

 

もう一度、イメージの特徴について考えてみよう。

 

1 私たちは、イメージを見ているのであって、それらの個々のイメージが、そのことによって、何らかの実体であるということはいささかも保証されない。

1-1 複数の文脈、あるいはベクトルのようなものが交差することによって、いわばイメージが結像するのだ。そう、エネルギーを帯びたいくつもの流れが、交わって、像を成す。

1-1-1 多くの場合、それらの文脈/ベクトルは、悟性的思考の集積としてのミームの何らかの一部分である。そのミームの全体、そのアルゴリズムの全体を俯瞰することは、端的にできない。

1-1-2 そのように不可能な俯瞰を成すことではなく、私たちは、ミームのアルゴリズムに沿って、それにいわば流されながら、ミームに由来する複数の悟性的思考が交差するところに、幻日(げんじつ)のようなイメージを見て、それを現実だと思い込むのだ。一過性の幻を、ずっと変わることなく存在するリアルだと錯覚する。

 

2 それがイメージである以上、それはどこまで行ってもリアルではない。映画館のスクリーンに映し出された絵姿の向こう側を見ても、何もないのだ。

2-1 では、誰がそのような絵を描いて、誰がその絵を見ているのか?

2-2 あなたがその絵を描き、あなたがその絵を見るのだ。極端なことを言えば、その絵はあなたの創作であり、作り物だ。その意味で、イメージは恣意的だ。あなたが勝手に作り上げたのだから。

2-2-1 あなたはあなたの絵を描き、彼は彼の絵を描く。一人一人異なった絵を、恣意的なイメージをアストラル空間に投射し、自分で投射した超絶的に主観的な相異なるイメージを見る。だから、あなたは他者の物見の尺度が分からない。

 

3 さて、このように考察してきて、自分が高校生の頃、夏休みの宿題で書いた読書感想文の一節を思い出した。

3-1 大体、こんな感じ。「人は夢を見る。そのとき、夢を見る自分と、その夢を作り出す自分とがいる・・・」。そして、今、次のように考えるに至る。夢を見ることと夢を作り出すこととは、異なるプロセスではない、と。何かイメージを見るとしたら、それはそのイメージを作り出したということなのだ。そのイメージを作り出すという行為が、そのままそのイメージを見る行為なのだ。

3-1-1 自分で作っておきながら、そのことを忘れてしまう。だから、目の前のイメージが、あたかも客観的にそこに現れ、いつもまにか現前するようになっていて、今も現にそこにある、と錯覚する。眠りに就いて、夢を見るのと変わらない。

3-1-2 このとき、実は恐るべきことが起こっているのだ。自分が作ったことを忘却することによって、あなたは「それは私のせいではない」と言うようになる。悪びれもせず、そのように言うのだ。イメージ空間であるアストラル空間が、その由来からして、あなたそのものであるにもかかわらず、あなたはそのことに何の責任も負おうとはしない。

3-1-3 これは、言ってみれば、つまるところ、アストラル体の謎である。

 

4 物質体 → エーテル体 → アストラル体。この流れで行けば、アストラル体に向かって、物質性が希薄になってゆく。そして、魂が現れ、独自のイメージ空間であるアストラル空間が現出する。物質体に端を発し、エーテル体を経由して、イメージが生み出されるのだ。そして、イメージを生み出しているのは、あなたである。そして、あなたは自分の行為を忘れることで、完全に受け身になる。

4-1 だが、実際のところ、物質体からアストラル体に至る体(たい)を生み出したのは、あなたではない。だから、あなたはそれらの体に同定されない。あなたと体との関係性を、もう一度考えてみなければならない。人は通常、あまりに安易に体と自分とを同一化してしまう。

4-2 人間が、この地上を生きるために、物質に関与しようとするとき、人は魂を媒介にする。つまり、イメージを必要とするのだ。感覚魂をアンテナとして感覚的な情報を集め、悟性魂/心情魂を働かせて、イメージ空間としてのアストラル空間の中に、いわゆる地図/マップ/シナリオを描画/創作する。

4-2-1 原始的な動物であれば、感覚刺激を受け取って、あとは本能の命じるまま動き回れば、それで生きていける。彼らの体の成り立ちも、それにふさわしく形成されている。そこに余計な配慮は無い。シンプルであり、純粋に機能的だ。これは、確かに一つの進化のあり方である。

4-2-2 人間はそういうわけにはいかない。それは、人間の体の構成、その成長、そして何よりもその魂が霊を志向していることから、人間の進化が原始的な動物のようにはいかないことが明白である。ロゴス由来の複雑に分節化した言語をもち、抽象的な思考を成し得る存在は、霊的存在と呼ぶにふさわしい。そのように高度の精神活動を行う存在として、人間はこの地上を生きるのだ。だから、それにふさわしい体を人間は有し、そのような体を駆使してこの地上の世界を生きるために、イメージのマップ/シナリオを必要とする。

 

5 ここに、からくりがある。あなたは、自分で作っておきながら、そのことを忘れてしまう。気づいたら、すでにイメージがあったみたいな感覚だ。そのイメージを作ったのはあなたなのだが、あなたはそれを忘れている。だから、イメージは他者として現れる。それは、アストラル空間という、あなたからすれば外部に現れるように感じられる。

5-1 しかし、実のところ、アストラル空間には外部も内部もないのだ。外部はそのまま内部につながっている。地続きだ。境界はない。

5-2 イメージを他者と見なせば、イメージは外部にあるように感じられるという事の成り行きだ。実際は、アストラル空間に境界は無いから、これもまた錯覚である。

5-3 生きるためのマップ/シナリオを作成するために自分でこしらえたイメージ。しかし、あなたは自分がそのイメージを作ったことを忘れている。だから、あたかも出来合いの道具ででもあるかのように、あなたはイメージと格闘する。なぜなら、その道具の使い方が分からないから。実のところ、あなたはイメージの使い方が分からない。どのように関わり、事に当たればいいか分からない。

5-4 そうして、あなたは自らのアストラル空間の中で迷子になる。

 

6 いくつもの不都合が起こり始める。

6-1 あなたはイメージに対して完全に受け身だ。なぜなら、イメージを作ったのは自分であることを忘れてしまったから。イメージが完全に他者の様相を帯びる。そして、イメージの他者性に対して、あなたはなす術を知らない。あなたはイメージに従属するようになる。そして、それに依存するようになる。