“・・・夜、自分の人生を振り返ってみてください。皆さんはその中に小さな出来事、大きな出来事、あるいは中くらいの出来事を見出すことでしょう。こうした出来事に関して皆さんは、「それはまったく注目すべき方法で私の人生に入ってきた。それはまったく驚くべき方法で生じた」と、言うことができるはずです。もし十分に総括的に思考するなら、人生の関連を十分総括的に魂の目でとらえるならば、皆さんはこのように人生を観察することができるようになるでしょう。しかし人間は、通常の人生ではまったくこのような思考を行いません。というのも、人間は普通、「例えば、あるものによって何が妨げられたのか」と問うことがないからです。
たいていの場合、私たちは妨げられた事柄を気にかけません。ところが、もしその事柄が妨害を受けることなく現実に起こっていたならば、私たちの人生は根本的に別のものになったかもしれないのです。何らかの方法で私たちの人生から取り除かれてゆく事柄の背後には、私たちを目覚めた人間へと教育してくれるものが数限りなく存在しているのです。毎晩私が「今日私の身に起こりえたことのすべてとは何だろう」という問いかけを行い、何らかの事柄を引き起こす可能性のあった一つ一つの出来事を観察するならば、このような問いかけに様々な人生観察が結びつくようになります。そして、このような人生観察が、自己鍛錬の中に目覚めを引き起こすのです。それは一度始めれば、おのずとその先へ、さらにその先へと繋がっていく性質のものです。・・・
・・・人生に生じる否定的なものは、私たちの人生の知恵に満ちた導き手について証言してくれます。このような否定的なものの観察から出発して、私たちのアストラル体の中で活動する天使の観察へと到る過程は、私たちが選択しうる真にまっすぐで確実な道なのです。・・・”(ルドルフ・シュタイナー『天使と人間』松浦賢訳 イザラ書房 p. 79,80)
あなたは、今生において、いくつもの出来事に遭遇する。それらの出来事の中で、あなたは他者と出会い、彼らと共に出来事を前へと進める。外目(そとめ)に、彼らとの間でどれほどの軋轢があるかに見えても、あなたは彼らと共に、個々の出来事の成就に関与し、そのことを通して自らのカルマを編んでいるのだ。
ともあれ、あなたは、「驚くべき方法で」出会うべき他者、その人たちに出会う。他の人たちではなく、その人たちに出会うのだ。
そのような選択を何者が成すのか?
あなたのペルソナは、何か選択めいたことを成すかもしれないが、運命はあなたをペルソナの思いもしないところへと運ぶだろう。
ペルソナの思い通りにはならない。ペルソナの期待は常に裏切られる。ペルソナの影であるシャドーが、ペルソナの独り善がりを決して許さない。
シャドーはペルソナが自分の内から排除し、疎外してきた否定的なものたちであり、排除されてもつかず離れずペルソナに寄り添い続ける。シャドーを通して、ルシファーとアーリマンの誘惑が来る。これは試練である。試練を克服せずに、前に進むことはできない。「前に進む」とは、新たなカルマを形成することを意味する。
このような「カルマの形成」の文脈で、「それは一度始めれば、おのずとその先へ、さらにその先へと繋がっていく性質のものです。」とシュタイナーは語っている、と思う。そして、思い出さなくてはならない。
キリスト - エクスシアイ - アンゲロイ(天使)の系譜から、人類の自我の衝動が発せられており、根本的にはこの衝動こそが私たちのカルマを形成する源だ、ということを。
そして、このカルマ形成というベクトルが、インスピレーションそのものであるとも言える。カルマの形成という霊的シナリオを読む/聴くこと。出来事という霊的シナリオを読む/聴くこと。
カルマは出来事を通して編まれる。
カルマと出来事とは同意である。
自我の正体はカルマである。
自我とは思考存在としての霊である。その思考は純粋思考である。
出来事は一人の人間によって成立するのではない。複数の自我が関わることによって成立するのだ。
つまり、他者の介在なしには、純粋思考は生起しないということ。カルマを本質として有する自我というものは、他者の自我なしには生起し得ない。
さて、これは何を意味するのか?