ミームに依る悟性魂/心情魂の意識空間/思考空間にいるかぎり、人は迷信 - 狂信のベクトルから逃れることはできない。
迷信に囚われ、狂信に至るというその共通の土俵にいて、どちらが優れているとか、これこそ最高だとか、あの人は味方だが、その人は敵だとか、云々かんぬん、比較し順位をつけ、競争し、裏切られ、仕返しをし、などなどしているわけだが、その土俵上をいくら探し回ったところで、答えはないのだ。
見つかるのは、変わり映えしない古きものばかり。そう、“いつか来た道”という既視感だ。
もしかすると、その繰り返しの徒労に気づいている人もいるのかもしれない。どこまで行っても、悟性魂/心情魂の牢獄だと。ミームの迷宮だと。もちろん彼らの言葉は、ファナティズムに燃え上がる群衆のところには届かない。
“・・・悟性は霊的な発展の妨げとなります。悟性、知性の誘惑は、人間がキリスト原理へといたるのを根本的に妨げるものにほかなりません。最後に二本の角を持つ獣の手中に落ちる者たちが、彼らにとって何が最悪の打撃であったかを振り返ることができたなら、「深淵への性向はのちになって現われたが、キリスト原理への目を曇らせたものは悟性である」ということでしょう。
このような悟性を持つ者が、獣の数について熟考するのです。人間が人間になったこと、つまり自我・悟性を有するようになったことによって、人間は666の獣の手中に落ちるのです。獣の数は人間の数であり、自分の悟性に誘惑された人間の数なのです。”(ルドルフ・シュタイナー『黙示録の秘密』西川隆範訳 白馬書房 p. 246,247)
人間にとって、外なる宇宙は、その人間がミームに囚われているかぎり、謎めいたままにとどまる。もちろん、それは謎めいたままにとどまるべきだ。部分的に解明されたように思えても、謎は残り続ける。そして、その方がいいのである。
三次元空間と重力、そして時間をよすがとして、様々な自然科学的理論が創作される。そして、宇宙は“もの”として空想される。生命無きものとして想像される。
外なる宇宙を“もの”とみなすそのようないわゆる自然科学的宇宙観は、人間にも適用されるに至る。そのベクトルで人間を含めた生命世界と魂の世界を説明するために、多種多様な無理強いの唯物論的理論が生み出されてきた。こうしたすべての唯物論的悟性的思考を、地球上のほぼすべての人間が陥っている迷信/狂信の極北として特徴づけることができる。
通常、私たちのほとんどみんな、こうした科学的理論をフォローできない。しかし、これらの理論の作成者たちにとって、そのことはむしろ望ましい。それによって、理論にいわば後光が差すから。そのようにして、一種の雰囲気のようなもの、空気のようなものが醸成される。この雰囲気のようなもの、空気のようなものの中に、ルシファーとアーリマンの霊のとぐろが見え隠れしている。
そうなのだ。悟性魂/心情魂の迷宮にはまり込めば、それこそルシファー/アーリマンの思うつぼ、その術中にはまるのだ。そのようにして、部族間/民族間の戦争は繰り返されてきたし、ミームから突出した預言者たちはミーム信者たちによって殺されてきた。悟性魂/心情魂の中に偽りの自我としてのペルソナが幅を利かせるようになった近現代においては特に、家族の中で支配/被支配の歪んだ構図が顕著になった。ひとりの人間の中で、その魂が疎外と排除の論理で分裂している。その分裂の悲劇を他者に投影するのだ。
ルシファーとアーリマン、そして人間の悟性魂/心情魂に由来する恐るべき多様性、多様ではあっても一面的にも見えるこの有り様について、悟性の力で説明することはできない。悟性的な思考は、アーリマン/ルシファーに対しては無効である。何のリスクマネージメントにもならない。なぜなら、私たちの悟性魂/心情魂の内部に巣食ったミームの作成者こそ、彼らだから。
忘れてならないのは、彼らは私たち人間よりも強大な霊的存在だということである。